朝比奈元長と朝比奈信置とは?~今川家から武田家へと仕えた庵原城主

朝比奈元長とは

朝比奈元長(あさひな-もとなが)は、藤原鎌足の孫で三十六歌仙のひとり、堤中納言兼輔の末裔である駿河朝比奈家の朝比奈俊永の子となります。
父と同じく今川家に仕えましたが、誕生年などは不詳です。

この頃の朝比奈家は、遠江朝比奈家と分かれており、遠江朝比奈氏の朝比奈泰煕は掛川城を築城しています。

駿河の朝比奈元長(朝比奈丹波守元長)は庵原城主で、太原雪斎らと共に今川義元の重臣でした。
1548年、岡崎城に近いところで織田信秀と合戦となった、小豆坂の戦いでは、一族の朝比奈泰能や子の朝比奈信置らと参陣しています。

1559年には松平元康(後の徳川家康)の後見人を関口親永とともに務めました。

1560年、桶狭間の戦いでは、今川義元の本陣にあって奮戦するも、鉄砲にて負傷し、討死したと伝わります。
しかし、最近の研究では、敗戦の中、柳の木陰に身を潜めて、難を逃れたともされ、1566年8月23日に死去したと考えられています。

墓所は、静岡県静岡市葵区瓦場町の元長寺です。


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朝比奈信置とは

朝比奈元長の子・朝比奈信置(あさひな-のぶおき)は、1528年生まれです。

先にご紹介した1548年の小豆坂合戦では、先陣を任されて活躍したとあります。
また、甲陽軍鑑によると、山本勘助を今川義元に推挙した武将ともされています。
※今川義元は山本勘助を採用せず、のち武田信玄が家臣に加えています。

父の死後、家督を継いで、庵原城主となりますが、その頃の今川氏真は求心力を失っていました。
そのため、1569年に武田信玄が駿河へ侵攻すると、武田家に臣従し庵原領(いはら)を安堵されています。

なお、甲陽軍鑑によると、朝比奈信置は用兵に優れた軍略家であったことから、武田譜代の重臣からも一目置かれていたとあります。

こうして朝比奈信置(朝比奈駿河守信置)は武田家の他国衆・駿河先方衆の筆頭として150騎となり「信」の一字を拝領。
山県昌景(山縣昌景)の配下となって、持舟城を任され、遠江・高天神城に入った小笠原信興、江尻城穴山信君らと駿河を任されました。

武田勝頼の代となり、1575年、長篠の戦いにも参戦し、1580年には武田勝頼が奪い返した、持船城の城代に任命されています。

しかし、1582年2月、織田信長は甲斐攻めを開始します。
持船城は行く側家康の大軍に包囲され、子の朝比奈宗利に開城するよう命じて、朝比奈信置は久能城を経由して庵原の館に退却しました。
そして、妻子を残し、甲府の武田勝頼の元へと向かいますが、身延付近で武田勝頼が自刃したとの報に接します。

そのため、居城の駿河・庵原城(庵原山城)に戻るも徳川勢の攻撃を受けて朝比奈信置は降伏。
織田信長の命令により1582年4月8日、朝比奈信置は庵原の館にて自刃して果てました。享年55。


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嫡子・朝比奈信良は、武田勢として諏訪にて戦った際に、討死したようです。(甲府で自害とも)
なお、朝比奈信良の正室となっていた跡部勝資の娘は、この時、妊娠しており、兄・跡部良直のもとに身を寄せ、跡部良保を生んでいます。
この跡部良保は、のちに養子となって朝比奈良保と名乗り、朝比奈家を継いでいます。

なお、持船城(持舟城)を明け渡した、子の朝比奈宗利は、その時の滝川一益酒井忠次のつてで、のち徳川家の旗本となりました。

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