武田信広 優れた知略にて蝦夷を支配する

武田信広

武田信広(たけだ-のぶひろ)は、若狭の守護大名・武田信賢の子として、1431年2月1日、若狭小浜・青井山城にて生まれたとされます。
幼名は彦太郎ですが、母は不詳です。
北海道の勝山城と共にご紹介してみます。
父である武田信賢(たけだ-のぶかた)は、1467年から応仁の乱となると、細川勝元に属して一色義直らと戦いますが、劣勢のさなか、1471年6月2日に病死します。

若狭・武田家の家督は、父の弟・武田国信(たけだ-くにのぶ)が継いでいます。


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その応仁の乱より前の1452年に、12歳の武田信広は、佐々木繁綱(佐々木三郎兵衛門尉繁綱)、工藤祐長(工藤九郎左衛門尉祐長)ら合計6名にて夜陰に紛れて出奔したとされます。

しばらくは、古河公方・足利成氏に身を寄せたあと、東北の奥へと赴き、聖寿寺館(本三戸城)の南部光政を頼ったようです。
そして、陸奥宇曽利に移ると、田名部・蠣崎を知行するようになりました。

1454年8月28日には、その安住の地を追われた?ようで、安東政季(安東師季)と共に南部大畑から蝦夷地に舟で渡り、花沢館蠣崎季繁を頼りました。
蠣崎季繁は、安東家の被官と言う立場で、一緒に厄介になったと言う事だと存じます。

そして、武田信広は、安東政季の娘を妻に迎えており、1456年には嫡男・武田光広が生まれています。

1457年、アイヌによる道南十二館への攻撃が始まり、コシャマインの戦いとなると、道南十二館のうち志苔館など10館が陥落し、残るは花沢館と茂別館のみとなり、もう少しで滅亡の危機に立たされました。
しかし、武田信広が指揮をするようになると、体勢を立て直して反撃に出たため、アイヌ勢は駆逐されていきます。
そして、武田信広は、七重浜にて首謀者コシャマイン父子を、弓で討ち取りました。


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この功績により、武田信広の功名は轟き、花沢館の蠣崎季繁は嗣子がいなかったため、武田信広の妻( 安東政季の娘)を自分の養女にする形で、まもなく家督を譲ったと推測されます。
こうして武田信広は蠣崎信広と名乗っており、松前藩主松前氏の元祖と言われます。

ただ、武田信広(蠣崎信広)は、花沢館には入らず、1458年に完成した洲崎館にいたようで、一族・親族を集めると「建国之大礼」(国主になったと言う儀式)を執り行ったと伝わります。
すなわち、各領主の合意を得て、平穏無事に蠣崎家の家督を継いだと言う事になります。

養父・蠣崎季繁が1462年に亡くなると、花沢館を廃城として新たに勝山館を築城開始しました。
また、文明7年(1475年)には、樺太アイヌの首長から貢物の献上を受けて、樺太も支配したと言われています。


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1494年5月20日に武田信広(蠣崎信広)は死去。享年64。
家督は子の武田光広(蠣崎光広)が継ぎました。

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