歴史上を見ると、「●代目の天皇の血を引く」「××と言う武将の子孫」と称した人物は数多いですが、本項で紹介する楠木正虎(くすのき-まさとら)は戦国時代におけるそうした人々の代表格とも言える1人です。
正虎は永正17年(1520年)、備前(岡山県)に生まれました。
父親は、楠木正成の子孫にあたる大饗正盛(おおあえ-まさもり)ですが、一説には正盛の養子として楠木家に入ったとも言われています。
こうした名字を変える傾向については諸説がありますが、祖先である正成が北朝すなわち光明天皇を奉じた足利尊氏に敵対したため、時の権力者による追及を避けるためと言う説が有力です。
この正盛の父(つまり正虎の祖父)にあたる楠木正秀も正成の三男・正儀の子、あるいは正成の孫・正勝の子であるとも言われており、著名な武将の一族であるにもかかわらず、正虎の系譜は不明瞭さが目立ちます。
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いずれにせよ、若き日の正虎は楠長諳(くすのき-ちょうあん)と名乗り、飯尾常房の流れを汲む流派に書を習うなど、文化人としての才覚を伸ばしていきます。
中でも、宮中や公家社会で尊ばれた書道であった世尊寺の書家としては一流の腕前を発揮しました。
そして、その文才・芸才を武器にした正虎は天文5年(1536年に)足利義輝に仕えたのを皮切りに各地の群雄を渡り歩きます。
その後、正虎は松永久秀の配下になり、右筆すなわち書記官として松永氏の家臣となりました。
この久秀との出会いが、正虎を一介の文人から歴史上に名を残す武将へと押し上げるのです。
永禄2年(1559年)、久秀の仲介によって朝廷にコネクションを持った正虎は、正成の末裔であると名乗り出て祖先から朝敵の汚名を赦免して欲しいと願い出ます。
正虎の嘆願は正親町天皇によって聞き届けられ、ついに悲願であった祖先の赦免を賜ります。
それによって、正虎はこれまで名乗っていた楠長諳から楠木正虎と名乗りました。
その後、正虎は織田信長の家臣として召し抱えられ、天正3年(1577年)には式部卿法印の役職を与えられ、佐久間信盛の監察官になります。
2年後も、京都御馬揃えに参加しているなど、この頃になると正虎は織田家に馴染んでいました。
信長の死後、正虎が仕えた主君は豊臣秀吉で、文禄元年に秀吉が朝鮮出兵の軍を興すと、正虎は肥前(佐賀県)の名護屋城に移って帳簿に関する職務を拝命します。
その時に同じ職務に当たったのが石田三成の父親である正継で、このコンビは学問と文才に優れていた点で共通していました。
それから2年後の文禄5年(1596年)、楠木正成の汚名を晴らすべく奔走した正虎は、76年もの長寿を保ち、その生涯に幕を下ろしました。
彼の人生で特筆すべきは、敵の子孫である足利将軍家に臣従し、やはり敵対者であるはずの北朝の天皇に正成の赦免を願い出ると言う柔軟さです。
それは、幕末から戦前にかけて行われた南朝正閏の価値観からすれば異様とも思えます。
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しかし、このような事例は過去に拘泥して自分の正統性を論じることよりも、先進性を良しとした戦国の気風に相応しいものでした。
そして、その価値観を体現した正虎は、仮に血の繋がりがなくとも、合理性を重んじた正成・正儀の末裔を名乗るに相応しい武士であった事を、証明しています。
(寄稿)太田
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