安東愛季 安東氏を大きく飛躍させた戦国大名

安東愛季

安東愛季(あんどう-ちかすえ/よしすえ)は、下国安東氏である檜山城主・安東舜季の子として1539年に生まれました。
母は正室で上国安東氏である安東堯季の娘となります。
1553年、父・安東舜季が死去すると15歳の若さで家督を継ぎますが、文武両道の武将と伝わります。
正室は砂越宗順の娘で、のち家督を継ぐ2男・秋田実季は1576年に側室・畠山清信の娘が産んだ子になります。


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安東家の統一によって日本海側での交易を更に盛んにしようと、安東愛季は能代湊や土崎湊を整備しています。
更に勢力拡大のため、1562年には、比内の扇田長岡城主・浅利則祐を攻め滅ぼし、浅利則祐の弟である浅利勝頼を浅利家の当主において支配しました。

1567年、南部晴政の所領である鹿角へ侵攻すると長牛城を落としています。
しかし、1568年、九戸政実に長牛城を奪われました。

その後、安東家の内部では、河川交易の権利を巡って「湊合戦」になります。
安東愛季は、湊安東氏を継いで湊城主になっていた弟・安東茂季を使って、秋田南部での交易を独占しようとさせます。
そのため、1570年、出羽・豊島城主である豊島重村(豊島休心)が謀反を起こし、1572年に平定し、大宝寺義氏の由利も勢力下におきました。
一方で安東愛季は、全国の動向も注目していたようで、武田信玄が死去した1573年からは、毎年、織田信長に貢物を贈るなどして、誼を通じています。
ラッコ皮や獣皮、干魚、昆布などのほか、勇猛で知られる出羽の「鷹」を、よく贈って喜ばれたとあります。

また、本拠を日本海側の脇本城へ移し、安東氏は最盛期を迎え、 ルイス・フロイスの記録にも見えます。

脇本城

1582年、比内の浅利勝頼を檜山城に呼ぶと松前慶広に謀殺させ、更に勢力を伸ばしましたが、1583年、長男で檜山城主の安東業季(秋田業季)が病没しています。

晩年には名を秋田愛季と改名しましたが、豊臣秀吉の助けもあって従五位上侍従を受けています。

1587年、安東愛季は、角館城主・戸沢盛安を責めましたが、その合戦中に発病し死去しました。享年45。


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安東家の統一に成功したため「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」との称賛を受けた戦国大名となります。

わずか12歳である秋田実季が家督を継ぎますが、湊安東氏を継いでいた安東通季(豊島通季)が上国家の復活を掲げて反乱を起こします。

安東舜季とは
南部晴政とは~最盛期の南部家へと発展させた有能な武将
戸沢盛安 鬼九郎(夜叉九郎)の異名を得るも25歳の若さで
出羽・湊城 戦国時代には湊安東氏の居城
出羽・豊島城(豊島館) 畠山重村(豊島重村・豊島休心)と湊合戦
脇本城 日本海の展望も素晴らしい続日本100名城
出羽・大館城 浅利勝頼・浅利頼平の比内浅利氏
秋田実季とは

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