細川頼之とは 室町三代の将軍を支え続けた忠臣

細川頼之

細川頼之(ほそかわ-よりゆき)は元徳元年(1329年)、三川国額田郡細川郷(現・愛知県岡崎市細川町)に、細川頼春と黒沢禅尼の息子として生まれ、幼名を弥九郎と言いました。
この頼之は名門として名高い細川の生まれであるにもかかわらず少年時代の動向は不詳で、史料に名が登場するのは観応元年(1350年、南朝の正平5年)に阿波(徳島県)で起きた戦いに派遣された時になります。

頼之の父頼春は足利尊氏が奉じる北朝に仕官しており、彼は父の名代で南朝に与する阿波の小笠原氏を征伐するために参戦していましたが、2年後に南朝が京に攻め込んだ事で父頼春が戦死しました。
頼之は尊氏の嫡男・義詮に仕えて男山八幡に参戦、父の死と言う悲劇に見舞われるも、その弔い合戦を勝利で飾ったのです。


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亡父頼春は阿波の守護で、それを継いだ頼之は四国での地盤を固める一方で南朝軍に加担した足利直冬(尊氏の庶子)との戦いが起こると伊予(愛媛県)に発向したり、直冬軍から京都を奪回するために帰京するなど、政治に戦いにと激務に追われました。
延文元年(1356年、南朝の正平11年)には闕所の処分権
を巡って備後(広島県)の守護職を辞退して阿波に行こうとした頼之が、従兄弟の細川清氏に説得されて京都へ戻った逸話があります。

中国地方に赴任してからも頼之が三面六臂の活躍をしたのは変わらず、西国諸国での軍務や所領や事柄など行政にも携わり、中国大将・中国管領と呼ばれました。
2年後に尊氏が死去して義詮が二代将軍となり、清氏は執事に就任します。
しかし、この清氏と頼之は骨肉相食む死闘に身を投じてしまうのです。
貞治元年(1362年、南朝の正平17年)に幕府内の政争に負けた清氏は南朝に寝返り、幕命を受けた頼之はこの従兄弟を戦死させ、更には直冬に味方する山名時氏を帰順させるのに一役買ったと言われています。

貞治5年(1366年、南朝の正平21年)に管領職にあった斯波氏が失脚すると頼之は佐々木道誉足利基氏、赤松氏などの推挙で管領に就任します。
死の直前に義詮は頼之を呼び、嫡男・義満を補佐して欲しいと言い残しました。
『あなたに我が子を託します』と主君が家臣に対して例を尽くし、と遺言したこの逸話は、義詮と頼之の深い信頼によって培われた絆を物語っています。
また、頼之の妻も義満の乳母として仕えており、夫婦で義詮に信任されていました。

頼之の後見を受けた義満もまた、亡父の遺言通り頼之に全般の信頼を置きました。この二人を中心とした室町幕府は将軍の権威を高め、朝廷との関係強化、南朝勢力の鎮圧に乗り出します。
応安2年(1369年、南朝の正平24年)に楠木正儀が北朝に降伏、翌年には今川貞世を九州探題に任じて懐良親王(後醍醐天皇の皇子)の軍勢を駆逐しました。


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また、北朝皇室の皇位継承問題や旧来の仏教宗派と信仰の禅宗との争いを解決すべく頼之の東奔西走は続きますが、斯波氏や山名氏、義詮の正室渋川幸子など内部闘争が原因で難渋することもありました。
康暦元年(1379年、南朝の天授5年)に頼之の異母弟で彼の養子でもある頼元による南朝征伐が頓挫、その代理に任命された山名や斯波、土岐と言った反頼之の武士達は彼の罷免を義満に要求、それを呑ませます。

これが康暦の政変で、管領を辞任した頼之は領国・四国へと追放され、道中で出家しました。
本領に戻った頼之に安息の日々はなく、斯波と組んだ伊予の河野氏や清氏の息子・正氏と対決して分国統治を進展させる、多忙な日々が待っていたのです。
康応元年(1389年、南朝の元中6年)、頼元の活動が功を奏して義満が厳島神社に詣でた時に船を提供した頼之は宇多津で赦免されます。

2年後に斯波義将の管領辞任を機にして頼之は呼び戻され、出家していたことで管領復帰はせず、頼元を管領にして頼之は補佐役に落ち着きました。
明徳元年(1390年、南朝の元中7年)には備後国の乱れを平定し、翌年に起きた明徳の乱で山名氏清と戦い、再び入京して政治家として仕官します。
その2年後、頼之は風邪が重くなって64歳で波乱に満ちた生涯を閉じたのです。
葬儀は、頼之が愛育した義満が主催者となって相国寺で執り行われました。

後世、頼之の政治家・武将・文化人としての才覚と忠誠心は高く評価され、彼以後の当主が右京大夫(唐名を右京兆)になったことから、頼之の系統は京兆家と称えられます。
江戸期には、老中・安倍忠秋が細川頼之以来の執権として称えられたのを始め、彼を崇敬する逸話が流布しました。
また、南朝正閏の思想によって北朝・室町幕府への批判(南朝の武将が忠臣とされたのに対し、北朝方は不忠な悪人と見做された)が高まった幕末においても幕臣・勝海舟は頼之を日本の経済を発展させた人物として賞賛しています。


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実力主義の乱世でありながら三代の将軍に仕え続けた忠臣・細川頼之は京都の衣笠山地蔵院に葬られ、そのたゆみない忠誠心で守り抜いた京都の地に、今も眠り続けています。

(寄稿)太田

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