里見義堯 万年君と慕われた仁者

里見義堯

北条早雲から興った比較的新しい勢力なのにも関わらず、関東で猛威を振るった後北条家。そんな後北条氏と関東の覇権を巡って争った勢力は佐竹家の他にもいました。その勢力は安房国(現在の千葉県南部)を拠点に活躍した戦国大名、里見家です。

今回は里見家の中でも全盛期を築いた武将、里見義堯(さとみ-よしたか)について触れたいと思います。

クーデターで家督略奪

義堯は里見実堯(さとみ-さねたか)の子として生まれます。しかし、実堯は義堯が20代の頃に起きた内紛、稲村の変で命を落としてしまいます。これは当時里見氏の当主になる里見義豊(さとみ-よしとよ)がまだ幼かったため、後見人として家督を預かっていた実堯が20歳になって成熟した義豊に無実の罪で謀殺された内紛とされていました。

しかし、近年の研究で稲村の変は義豊を当主の座から引きずり落とすために実堯・義堯親子が起こしたクーデターの見方が有力視されています。このクーデターで父を失った義堯は仇討のために敵対関係であった後北条家の北条氏綱に支援を求めました


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後北条氏の支援を得た義堯に義豊は天文3年(1534)に起きた犬掛の戦いで戦死します。これにより義堯が里見家第5代目当主となりました。

このまま里見家と後北条家の関係は続くかと思いきや、同年に稲村の変で義豊を支えていた真里谷信清(まりや-のぶきよ)が病死すると両家の関係に亀裂が走ります。

信清が後継者不在のまま亡くなってしまったので、後継者として信清の庶長子の信隆を推す氏綱とその弟である信応(のぶまさ)を推す義堯で対立し、両者は争うことになります。また信応は小弓公方である足利義明も推していたので、義堯は義明の支持を受けることになりました。

義堯はこの一連の動き(稲村の変の際に支援者であった氏綱を裏切って義豊側であった義明の支持を受けたこと)が当主としてあるまじき行為だと感じたので、稲村の変の事実改訂を行ったと考えられています。

里見家の全盛期を築く

義明と義堯により真里谷家の後継者は信応に決まり信隆を追放しましたが、信隆が支持していた氏綱の勢いは凄まじいものでした。2人は氏綱を止めるために天文7年(1538)に第一次国府台(こうのだい)合戦で戦います。


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結果は義明が戦死で終わりますが、義堯は戦闘に参加していなかったので、無傷に等しい状態でした。その後、義堯は義明のいた下総や真里谷家の上総へ進出し里見家の全盛期を築き上げました

北条氏康と関東の覇権を争う

しかし、氏綱の後継者である北条氏康の策略によって天文21年(1552)、義堯に従っていた国人衆が裏切ります。そして弘治元年(1555)、今川と武田と同盟を結んで地盤を固めた氏康に領地(上総)を奪われると、義堯は氏康に対抗するために上杉謙信と同盟を結びました。

義堯は後北条家と敵対していた佐竹と宇都宮と共に徹底抗戦を行うことになります。

それから氏康と2度戦った義隆は永禄5年(1562)に家督を子である里見義舜(さとみ-よしきよ)に譲ります。

そして永禄7年(1564)、後北条家配下武将の裏切りに応じた謙信に従い、国府台を攻めると氏康と3度目の戦が勃発しました(第二次国府台合戦)。

後北条勢の奇襲と挟撃によってこの合戦に敗北してしまった里見家は本拠地である安房まで戻され、一時的に勢力は弱まります。しかし、安房で力をつけたことにより徐々に勢いを戻してきたので永禄10年(1567)、三船台で氏康と戦います(三船山合戦)。

見事この戦で勝利した義堯は上総の支配に優位に立ったので、勢力圏を下総まで伸ばしました。

そして天正2年(1574)、義堯は68歳でこの世を去りました。


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敵からも認められていた義堯

義堯の人柄は後北条家から認められており、「仁者必ず勇あり」と評価されています。また、義堯の「堯」は中国神話に登場する名君主・堯に由来するものとされています。これにあやかって義堯は善政をしいたので民からは「万年君様」と慕われていました。

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