大内義隆(おおうち-よしたか)は永正4年(1507年)11月15日大内義興の嫡男として生まれます。
幼名は亀童丸といい母は大内家家臣内藤弘矩の娘でした。
大内義隆は少年時代に周防介の略称で「介殿様」と呼ばれており、この周防介は大内家が数ヶ国の守護職を兼任するようになってから、未来の当主後継者に与えられることになっていました。
永正17年(1520年)大内義隆は14歳にて元服します。
そして大永4年(1524年)5月には安芸に侵攻した尼子軍を相手に初陣を果たし、この前後には公卿の万里小路秀房の娘万里小路房子を正室に迎えています。
その後義隆は父大内義興とともに安芸・備後と転戦、享禄元年(1528年)12月20日に義興が病没すると義隆が大内家当主となります。
そして享禄2年(1529年)には去年秋までさかのぼる段銭累積未進文の帳消しを発表、これはこの年に周防で起こった徳政一揆を受けての措置とみられ、結果的にこれが代替わり徳政になります。
そして同年12月23日には従5位上に昇進します。
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享禄3年(1530年)4月筑前にて少弐家が反大内の軍事活動を活発化、大内義隆は家臣である筑前守護代杉興運に少弐家討伐の命令を出します。
しかし田手畷の戦いにて大内軍は少弐軍に敗北、筑前・豊後では少弐家や大友家が積極的に軍事行動を開始します。
この北九州での戦況に対し義隆は天文元年(1532年)11月周防守護代の陶興房に九州出陣の命令を出します。
その後は興房率いる大内軍が各地で転戦、少弐・大友家諸城を落城させます。
そして天文2年(1533年)8月には義隆が筑前守を勅許、12月には興房が筑前を平定します。
その後天文3年(1534年)には大内軍が豊後にて大友軍に勝利、肥前では興房が少弐家家臣龍造寺家兼を説得して主家に降伏を促し、少弐家は降伏します。
その後興房は天文4年(1535年)に少弐家当主少弐資元・少弐冬尚の領地を攻め取り、資元は天文5年(1536年)9月に自害、冬尚は追放。
大友家とは天文3年12月に12代将軍義晴の仲介により和睦しています。
また自家の北九州統治に対し大内義隆は、少弐家より上位の太宰大弐の官職を求めます。
そして多額の献金の末天文4年12月に任命されますが、就任前日に棄却。太宰大弐に任じられるのは1年後の天文5年5月16日になります。
そして天文6年(1537年)1月には従4位上に昇進、同年12月には室町幕府より上洛して幕政に参加するよう要請が届きます、しかしこの頃、不穏な動きをみせる尼子家の動静から領内を留守にすることはできず、上洛は実現しませんでした。
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当時尼子家は大内義興の代から争っていた尼子経久が引退し、孫の尼子晴久が当主になっていました。
また尼子家では享禄3年に経久と経久3男塩冶興久の親子間で内乱が起こっており、大内義隆は当初はどちらにも与しませんでしたが、最終的に経久方に味方しています。
そしてその後も大内・尼子の関係は不安定であり、晴久の代では室町幕府からの上洛要請を受けて美作・備中・播磨に出陣しており、晴久は自軍の背後の脅威を取り除くため安芸や岩見に精力的に戦いを仕掛けていました。
このような情勢をみて大内義隆は天文9年(1540年)1月周防防府に出陣。
同年6月には安芸にて尼子軍と大内方の国衆が争い大内方が勝利、その後晴久は同年8月尼子家の全勢力を総動員した3,0000人の軍勢にて出陣、大内方であった安芸国衆毛利元就の居城吉田郡山城を包囲します。
この晴久自らの出陣に対し安芸の諸勢力は続々と尼子方への味方を表明します。
安芸での戦況悪化に対し大内義隆は当初尼子軍との決戦に慎重で、陶興房の死後に後を継いだ陶隆房率いる10,000人の大内家援軍は同年10月に安芸厳島に到着してから動きませんでした。
しかし大軍の尼子軍に対し毛利軍は奮闘、同年12月ついに大内軍の援軍が到着します。
そして天文10年(1541年)1月尼子軍に決戦を挑んだ大内・毛利軍は勝利、晴久は出雲へ撤退し大内軍は安芸の反大内勢力を一掃します。
その後大内義隆は同年12月27日に従3位に昇進、公卿に列します。
そして安芸・石見では尼子方の諸勢力が続々と大内方への寝返りを表明、義隆は尼子家討伐のため出雲遠征を決意し天文11年(1542年)1月11日山口を出陣します。
出雲へ向け進軍する大内軍は各地で諸勢力と合流、同年7月に出雲赤穴城を攻略し10月には三刀屋峰に陣を移します。
そして天文12年(1543年)2月尼子晴久が籠城する月山富田城近くの京羅木山に本陣を移動、同年3月より局地戦が開始されます。
しかし戦局は大内軍に不利で2ヵ月たっても総攻めの機会は得られず、徐々に味方への兵糧補給が難しくなっていきました。
そして4月30日大内軍に従軍していた吉川興経・本常常光といった国人衆たちが一斉に寝返り月山富田城に入城してしまいます。
こうして5月7日大内軍は周防山口に向け撤退を開始、義隆は尼子方の追撃を防ぎ同月25日に山口に帰参します。
この撤退戦において大内軍は壊滅的な打撃を受け、殿を命じられた毛利元就は自害を覚悟するまで攻められ、別の退路で周防に向かった義隆養子の大内晴持は乗っていた船が沈没し溺死しています。
しかし敗戦後の大内義隆はすぐに領内の防備を固め、備後・石見へ侵攻を開始した尼子軍と一進一退の攻防を行います。
また、このころより大内家では東方保全のため毛利元就を頼みにするところが多く、義隆は尼子家に寝返った安芸国衆吉川興経の領地を元就に与えて元就次男を吉川家当主に、そして同じく当主が病死した安芸国衆小早川家に元就3男を当主にするように要請しています。
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天文13年(1544年)1月大内義隆は侍従に任官。
同年6月29日には家中に「御分国中御法度条々」を定めます。
この法度では今まで大内家当主直属の機関がもっていた権力が、家臣であり守護代の陶・内藤氏や政所の相良氏に移ったものが多々あり、義隆権力の低下が分かります。
そして天文14年(1545年)1月22日少弐冬尚が大内方と誼を通じていた龍造寺家兼の一族を殺害します。
その後家兼は冬尚に報復、義隆は家兼の死後跡をついだ龍造寺胤栄、その後の龍造寺隆信を大内家の肥前代官に任命し少弐家の討伐を命じます。
また同年6月に義隆は正3位に昇進、これによって将軍を含めた武家の中で義隆が最高の官位を持つこととなり、大内家中においては5位以上の位階を保有する者が10人以上存在するものとなります。
歴代当主が京都にいた期間が長く、文化・伝統が発達した大内家において大内義隆も他の当主同様に「文」に傾倒していきます。
また義隆には復古思想があり、大内家では家臣も含めて有識故実を研究していたため独自の作法が作られていました。
義隆にも公卿三条西実隆に対し官職や就任形式、禁中の諸事について質問した『多々良門答』が残っており、これはかなりの知識をもつ人でなければ質問できないものでした。
そして当時周防山口には京都より一流の文化人が戦乱から逃れて訪れており、大内義隆はさまざま分野の一流の人物より和歌、連歌などの文化芸能を学びます。
また義隆は神道や儒学の探求にも傾倒しており、学者清原宣賢に『四書五経諺解』を借りて書写させ、朝鮮には『五経正義』や『大蔵経』といった典籍を求めています。
そして漢詩文の普及にも尽力し『聚分韻略』を木版印刷で刊行、この大内版と呼ばれる印刷技術の高揚も大内家の文化を支え、自家の書籍所蔵に役立っていました。
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また大内家では天文8年(1539年)と天文16年に遣明船を送っています。
日本からの輸出は刀剣・硫黄・銅がほとんどで扇などの民芸品も含まれていました。
この日明貿易の利益は莫大であり、大内家では「渡唐船法度条々」を制定し乗組員を統率していました。
そして義隆は天文19年(1550年)周防山口にキリスト教の布教を許可しています。
宣教師のフランシスコ・ザビエルは当初、義隆に最新式の燧石銃を献上しながらも、義隆が嗜んでいた男色を否定したため激怒されており、2度目の謁見にてようやく布教許可をもらっています。
このとき義隆は大時計やオルゴールなどの贈り物を喜び、聖書の教えよりザビエルたちが身につけていた祭服に興味をもったと言われています。
こうして義隆の時代に大内家の文化は新旧東西からの刺激により隆盛を極め、当時人口10,000人と言われた山口は「西の京」と呼ばれるにふさわしい様相を示していました。
『大内義隆記』をみると晩年の大内義隆は「武」から離れ、京都から来た客人や自身の御伽衆と毎夜遊興にふけっています。
そしてこの客人たちへの接待費や、義隆の文化・芸術探求の経費は庶民への臨時課税となり、大内家中ではこの状況に対し武断派筆頭の陶隆房と文治派筆頭の相良武任の家臣間で対立が起こってしまいます。
やがて天文14年に武任は大内家を出奔、その後の隆房は徐々に当主義隆へ陰謀を企てるようになります。
そして天文18年(1549年)1月、隆房とともに陰謀を計画した麻生家重が計画に反対した家臣を殺害、これにより義隆に陰謀が露呈します。
このとき義隆は再出仕していた武任に真相を探らせますが、隆房の弁明により義隆は黙認。
隆房はその後に豊前守護代杉重矩、長門守護代内藤興盛を陣営に取り込むことに成功します。
大内義隆はこの間の天文17年(1548年)に従2位に昇進、天文19年(1550年)7月には後奈良天皇に遣明船の帰国による珍品を献上し参議に任官されます。
このすでに従2位となっていた義隆が参議になった理由としては、今後の中納言・大納言への昇進を視野に入れていたと考えられます。
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天文19年8月陶隆房は毛利元就・毛利隆元親子に対し大内義隆排除への協力を依頼します。
そして同年9月15日義隆と相良武任は今八幡・仁壁両者の例祭を欠席、これは隆房による義隆幽閉、武任襲撃の風聞が立ったからであり、義隆は尋問の使者を出しますが隆房は無実を主張します。
そして同月に開かれた大内家の最高評議会、式日評定を隆房と内藤興盛は欠席、その後武任は再び大内家を出奔、逃亡先より「謀反の疑いがあると主張したのは杉重矩で、自分がしたことではないことを山口の面々に知らせて決着をつけてほしい」と訴えます。
そして隆房も同年11月には居城若山城に籠もり、天文20年(1551年)1月になると義隆と隆房の不和は周囲に知られるようになります。
そして同月には義隆が大内家中に騒動が起こったらすぐに来援にくるよう毛利家へ密使をおくり、一方の隆房は同年5月大友宗麟のもとへ使いを出し、宗麟の弟で義隆の甥である大友晴英を義隆排除後大内家の当主にする密約を締結させます。
このような不穏な空気の中でも大内義隆は通常の業務も行っており、同年8月27日には大友家の使僧をもてなすため山口の大内館で能楽を行っています。
しかし同日深夜、義隆のもとへ陶軍数千が大内館に進軍中の報せが入ります。
そして翌27日に義隆は法泉寺へ移動、杉重矩と内藤興盛に参陣の命令を出しますが拒否されます。
その後義隆は海路にて脱出を図りますが暴風雨のため逃れることができず長門の大寧寺に入ります。
義隆は大寧寺住職の異雪和尚と仏法問答を行い、義隆一行は最後に戒名を授かります。
そして同年9月1日陶軍との抗戦の末、義隆は自害。享年45歳でした。
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この大寧寺の変で義隆側近以外では二条尹房や三条公頼、小槻伊治らの公卿も自害したか、殺害されており、7歳であった義隆嫡男の大内義尊も殺害されています。
(寄稿)kawai
・大内義興の解説 武勇仁徳兼備して天命を受けた良将
・大内義長の解説 傀儡と言われつつも潔く散った悲運の将
・陶興房の解説~大内義興・大内義隆親子を支えた名将
共通カウント
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