奥平貞治~目付として小早川の陣に入った徳川家臣

奥平貞治とは

奥平貞治(おくだいら-さだはる)は、奥三河の作手・亀山城主・奥平貞勝の子として生まれたが、生年は不詳。
奥平家の家督を継いだ奥平貞能の弟である。

織田信長による桶狭間の戦い今川義元が討死したあとは、松平元康(徳川家康)に臣従していたが、1571年に甲斐の武田信玄が三河侵攻してからは武田家に人質を出して従属していた。

武田信玄の死んだと噂が流れ、現実味を帯びると当時の奥平家当主・奥平貞能は、徳川亀姫と奥平貞昌の婚約や、奥平貞能の娘と本多重純の婚約など徳川家康と密議を交わし、1573年8月21日に亀山城を退去して武田勝頼から寝返った。
この時、武田家に取られていた人質は処刑されたが、父・奥平貞勝や次兄・奥平常勝はそのまま武田勝頼を頼っている。

兄・奥平貞能と奥平貞治は長篠城の守備を任されるが、1575年5月、武田勝頼が15000の大軍にて長篠城を包囲。
この時、奥平信昌(奥平貞能の子)らと僅か500とも言う兵力にて大軍を相手に籠城して凌ぎ、徳川家は織田信長の援軍を得ると、5月21日、長篠の戦いにて武田勝頼勢に大打撃を与えた。

1586年、徳川家康が上洛した際に、奥平信昌と共に奥平貞治は付き従ったが、豊臣秀吉が家臣へと所望し、奥平貞治は5000石にて黄母衣衆となった。


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1600年、石田三成との関ヶ原の戦いでは、徳川家康に従って会津征伐へも同行し、結城秀康の家臣に加えられた。

関ヶ原の戦い本戦の際には、黒田長政の調略により徳川家に内応を約束した西軍・小早川秀秋の軍監(目付)として、小早川の本陣に派遣された。
なお、黒田家からも家臣・大久保猪之助が小早川家の陣に入っている。

決戦の当日は、奥平貞治と大久保猪之助が、松尾山から動かない小早川秀秋に対して、寝返りの約束を守るよう再三説得したものと推測される。

ようやく、小早川秀秋は西軍の大谷吉継の陣営を目がけて松尾山を降りたが、小早川勢の先鋒・松野主馬が、この主君の裏切りに納得できず戦線を離脱してしまう。
そのため、松平貞治は指揮官不在となった松野隊(約50?)を率いて、松尾山を駆けおりて大谷吉継の右翼を強襲したとされる。
大谷吉継勢の必死の抵抗は凄まじく、軍監であった松平貞治も、白兵戦を演じなんとか勝利に導いたようだが、大谷家の牧村三左衛門により致命傷を負ってしまった。

1600年9月15日、奥平貞治は戦傷にて死去。
東軍においては、名のある武将で戦死した数少ない1人である。
下記写真は、関ヶ原にある奥平貞治の墓。

奥平貞治の墓

子が居なかったため、徳川家康は生母へ供養料300石を、毎年支給することで勲功に報いたと言われている。


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