私が個人的に好きな武将の二位は、明智光秀公なのですが、一位は、浅井長政公です。
此度は浅井長政公の人間性が伺えるエピソードを綴らせて頂きたく思います。
その前に浅井長政公を簡単にご紹介させて頂きます。
浅井長政公は、北近江の戦国大名。浅井氏の三代目にして最後の当主として、知られております。
長政公は浅井氏を北近江の戦国大名として成長させました。
長政公が16歳の時、 臣従関係であった六角氏に「野良田の戦い」にて勝利しました。約2倍の兵力差があったにも関わらず勝利し、これが初陣だったとも云われております。
六角義賢公を討ち取るには至りませんでしたが、この勝利により浅井氏は六角氏の元より独立し、再び北近江で地位を築く事ができました。
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この出来事により、長政公の決断力と統率力、そして勇気が示される結果となり、家臣達から強烈な支持を受けることになります。
そしてこの後、家臣達の推挙により、父である浅井久政公を当主から引きずり落とす形で、長政公は浅井家の当主となりました。
その数年後、織田信長公から同盟の申し出が浅井家へ届きます。
浅井氏の盟友である朝倉氏に手を出さないという約束の元、長政公は織田信長公との同盟の話を受け入れます。
更に23歳の時に信長公の妹、お市様と婚姻し、織田家との同盟を強固なものとしました。
ですが、信長公が長政公との約束「朝倉への不戦の誓い」を破り、越前の朝倉氏に戦を仕掛けた事で、両家の同盟関係は終わりを迎える事になります。
金ヶ崎の退き口をきっかけに、姉川の戦いなど、約三年間、織田軍と激しく戦います。ですが小谷城の戦いに敗れ、自刃。
長政公は浅井氏の全盛期を築きましたが29歳という若さで、この世を去ったと云われております。
簡単なご紹介となりましたが、長政公の義理堅い性格や、武将としての志の高さが伺えるかと思います。
長政公の逸話には、更にその人柄に惹かれるものも多くあります。
長政公が15歳になった時、六角義賢公から、六角家家臣の平井定武公の娘(当時12歳だといわれている)と、政略結婚を強要されました。
父、久政公の苦しい立場を理解して婚姻を承諾しますが、長政公はあくまで浅井家は六角家と対等でなければならないと考えており、六角家の家臣の娘との婚姻に大きな不満を抱いたと云われております。
いずれ六角家と争うことになるだろうと、妻を実家へ返すつもりでいたようで、婚姻後も妻と距離を置き、野良田の戦い後に綺麗なまま、実家へ送り返したと伝えられております。
また長政公の家臣、若宮左馬助公が戦死したときの事。その娘のまつに安堵状が出されており、その手紙と共に、父の死を悼むねぎらいの書状を送っています。
戦死した家臣の娘に対し、主君がねぎらいの文を送ることは、あまり例がないようです。
このように浅井長政公は真面目で、女性にも大変優しかったと伝わっております。
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1567年、織田信長公は斎藤氏を滅ぼし美濃を平定致しました。
そこで信長公は、足利義昭公を奉じて上洛する事を決意します。
信長公は上洛の協力をして欲しいと、長政公を訪ねます。
同盟国なのでと、長政公もこれを了承致します。
信長公にとって長政公は妹の夫、つまり義弟にあたるわけであり、それなりに信用していたのでしょう。
この後に信長公は、少ない手勢250騎を連れて、滋賀県米原市柏原の成菩提院で宿泊したと云われております。
その際の接待役が、浅井家の重臣・遠藤直経公でした。
遠藤直経公は成菩提院を抜け出し小谷城へ戻り長政公に、今こそ信長公に夜襲をかけ、討ち取るべき!と進言します。
ですが長政公は、義兄である信長公を騙し討ちにするのは武士らしくない。夜襲など卑怯なことは出来ないと、直経公の進言を拒否します。
この後、長政公は足利義昭公の警護に当たり、信長公を支援します。そのかいもあり上洛は成功。
この逸話からも、浅井長政公の義理堅さが伝わるかと思います。
更に、天正元年(1573年)8月29日、小谷城落城を悟った浅井長政公が、家臣の片桐直貞公へ宛てた一通の感状が残っており、この感状こそ長政公の最後の書状であるとされております。
この書状により長政公の自刃の時が分かり、8月29日か、翌日の9月1日かという事になろうかと考えられます。
内容は
この小谷城も、もはや無事なのは、この本丸だけになってしまった。
何かと不自由な籠城の中でも忠義を尽くしてくれ、本当に感謝している。
他家臣は次々と城を抜け敵方へ付き、小谷城内の混乱は凄まじい中、それでも浅井に尽くしてくれ…
感謝の想いはここには書ききれないほどだ
といった、内容だと云われております。
この書状は、片桐直貞公に感謝を伝える手紙に見えますが、その裏には、直貞公が次に仕える新たな主君へ向けての、推薦状の意味合いが込められております。
前主君、つまり浅井長政公が、これほどにまでに感謝し、その忠義を称える素晴らしい家臣であるという証明になります。
実際にこの手紙が元で、片桐直貞公は、羽柴へ召し抱えられます。
この片桐直貞公は、後に賤ヶ岳の七本槍の一人として活躍し、大坂の陣の際には、豊臣と徳川の交渉役ともなった、片桐且元公の父です。
片桐家にとって浅井家への感謝は、言い表せない程のものだったと思います。
片桐且元公が、浅井長政公の長女である淀殿(茶々)や、その息子の秀頼公を守ろうとしていたのは、浅井家への感謝の想いからだったのだろうと思われます。
「わしはここで絶えるが、新たな場所で生きよ」そういった想いが込められている書状だったのだと思われます。
死を目前にしてもなお、家臣を想い筆を取る長政公の姿は、さぞ立派だっただろうと…
29歳の若者に出来たことだろうかと、尊敬せずにはいられません。
そして浅井長政公を語るのにあまりにも有名なエピソード、小谷城落城の際の妻子への対応です。
自身の妻で信長公の妹でもあるお市様と、浅井三姉妹の命を保障するよう信長公へ引き渡したこの行動も、長政公の人間性が伺えるエピソードの一つだと思います。
織田信長公は浅井長政公へ向け、何度も降伏するよう勧告を出していたようです。ですが長政公は自身の義を貫きました。
ただ、自身は武将としての最後を飾れば良いが、まだ若い妻と幼い子供達を道連れにするのはしのびない、どうにか生き延びて欲しいと、長政公は考えたのだと思われます。
最終的には、お市様を人質に和睦を申し立てる手段もあったのかも知れませんが、愛する妻を政治の道具として使うことなく、妻と娘達の人生を考えたこの行動は、戦国時代には珍しく、愛情というものを理解していた人物だったのだろうなと感じられます。
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浅井三代記によれば、このように書かれております。
「そなたは信長公の妹。何の差し支えもないだろう。これより信長公の元へ送り届ける。どうか生きながらえ、わしの菩提を弔って欲しい」
そう説き伏せる長政公でしたが、お市様は耳を貸さず、涙ながらにこう反対したそうです。
「私一人生き残り、あれが浅井の妻かと後ろ指を刺されるのは、大変口惜しいこと。共に自刃いたしたく存じます」
長政公も内心では嬉しかったかもしれませんが、お市様は27歳と若く、娘達も茶々様は5歳、初様は4歳、江様にいたっては生まれたばかりと、まだまだ人生をやり直せる年齢でした。
そんな妻と娘達を自分の運命に付き合わせてしまうことは、長政公には出来なかったのだと…
「姫達は女子であるから、信長公も憎むことなく命は助かるだろう。今ここで幼い姫達を害するのは、あまりにも不憫なことだ。どうか姫達と共に城を出て、姫達を立派に育てあげて欲しい」
長政公はそうお市様を説得し、最後はお市様が折れるしかなかったと。こうしてお市様は生きる道を選びます。それが愛する夫、浅井長政公の望みであるならば…
浅井長政公も武将です。美しいエピソードばかりでは、勿論ないと思われます。
ただ29歳という若さだったと考えると、立派だと思われる逸話が数多くあるのも事実であります。
そんな浅井長政公の「あっぱれな生き様」を讃えるお祭りが、毎年9月頃に、滋賀県長浜市にて行われます。
(寄稿)在原 叶
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