江戸の開発には都市モデルがあった 徳川家康の城下町整備

江戸の開発

日本の首都にして、世界有数の大都市である東京。近年では2020年に開催される東京オリンピック・パラリンピックの舞台として、(最近はマラソン開催地問題でも揺れていましたが)、都市再開発によって更に進化してゆくことで、世界中の注目を集めている東京ですが、この地が明治以前まで『江戸』(「入江の戸(出入口)」、即ち江戸)と呼ばれていたのは皆様もご存知の通りです。

東京/江戸およびそれが在する関東地方、という存在を北陸地方の田舎出身の筆者からしてみれば、真っ先に「大都会」「商工業先進地」「政治文化の中心地」といった眼が眩むほどのイメージを思い浮かべますが、遥か昔の平安期~戦国末期の関東~東北地方の東日本一帯は、「鄙(ひな、田舎)」という一言では結論付けるのは困難なくらいの「不毛地帯」であり、当時の日本の政治・文化・経済の中心は、やはり京都などの含める畿内、次いで大陸から最新技術が導入されてくる通り道である中国・北九州を有する西日本であったことも周知の通りであります。畿内の人々が東日本に住まう人々を『東夷(とうい/あずまえびす)』と蔑視していたのを考え合わせると、現在に比べて東日本の地位の低さがわかります。


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上記の日本の状況を東京大学史料編纂所教授の本郷和人先生は、『ユーラシア大陸を思い浮かべてると、その極東に日本があり、大陸文化は絶対に東側から入ってこない。九州博多を経て西から入ってくるから西日本が先進地帯になるのは当然であり、そのどん詰まりが関東である』というような意味合いのご発言をBS歴史館というNHKの歴史教養番組でされていますが、古代~17世紀初頭までの東日本は、古代中国大陸における長江(揚子江)を中心とする大陸の南側(即ち巴蜀・荊楚)と似た未開・不毛・浮浪(野蛮)が棲む、という状況であったのです。

この記事を執筆させて頂いている現在(12月)、冬模様が強くなるに連れ「西高東低」という言葉を天気予報でよく聞きますが、昔の日本における経済文化についても同様の西高東低(中国の場合は、北高南低になりますかね)であり、この状況を完全に覆し、現在のように東京近辺などの東日本を日本の中心核としたのは、やはり戦国最後の勝利者である徳川家康(1542~1616)、その人であることは疑う余地なないと思います。

勿論、家康が深く尊敬していた武家政権の創始者である源頼朝鎌倉を本拠として関東武士団を束ねたり、戦国期における名将の1人とされる北条氏康をはじめとする後北条氏が相模国小田原(神奈川県小田原市)に拠り、関東地方で覇を唱えましたが、頼朝・氏康などにしても当時の開発技術や政治情勢などの時代的背景の限界などが柵(しがらみ)となり鎌倉・小田原を中心とした限定的な地域発展に貢献したのみであり、それに対して家康、ひいては後世の徳川幕府政権は、当時から導入および発明されていた優れた技術などを大いに活かし、江戸を中心として関東地方一帯を大開発した偉大なものであり、それまでの日本国内の政治経済の地位であった西高東低という状況を「東高西低」にしてしまったのであります。

余談でありますが、日本と真逆の発展順序を採ったのが現在のアメリカ合衆国であります。アメリカ大陸の場合は、東側に広大な大西洋を挟んで当時から世界の政治経済をリードしてきた西ヨーロッパ諸国が存在し、18世紀から西洋人や文化技術が大西洋を渡って東海岸から、未開/不毛/先住民が割拠する西海岸に向けて開発を進めてゆくという所謂、「西部開拓時代」になってゆくのであります。よって合衆国の発展順序は東高西低であったのです。

『日本史の謎は地理で解ける 文明・文化篇』(PHP)という名著があります。その著者であられる竹村公太郎先生は、江戸入府後に鷹狩りを通じて、自ら関東各所の地形などの調査を行った上で、江戸および関東の大いなる発展性を見出して、江戸の都市設計を行った家康の事を『日本史上最高級のフィールド・ワーカーであった。(中略)私はこの一点で家康を尊敬している』(「第4章 家康は何故利根川を東に曲げたのか」 文中より)と評されています。

その家康と家臣団が、入部当時から手付かずの土地・江戸を悪戦苦闘しながら様々な問題をクリアしつつ都市建設を行い、現在の大都会・東京の発展に繋がっていったのか?その内容については、直木賞作家・門井慶喜先生の『家康、江戸を建てる』『徳川家康の江戸プロジェクト』(ともに祥伝社)という素晴らしい大作がございますので、今回の筆者が書かせて頂いている今回の拙い記事では、家康が江戸の都市計画をした際には、その見本となる当時からの大都市があったことを中心に紹介させて頂きたいと思います。

先出の竹村公太郎先生は、家康のことを『日本史上最高級のフィールド・ワーカー』と評されていますが、僭越ながら筆者が竹村先生の家康評に一点だけ付け加えさせて頂くと、家康は『諸事、物真似/物学びの上手な人物であった』という事でございます。悪く言ってしまえば、『独創性がない。平々凡々な戦国武将・家康』ということになってしまうのですが、それが家康という大きな長所の1つであり、面妖な自我意識(独創力)がない中庸的性格であるからこそ他方面からの知識や技術を殆ど抵抗なく吸収した上で己の糧にしてゆき、家康個人の成長ひいては長きに渡る徳川氏の隆盛に繋げていったのですから、家康こそは『偉大な凡人』と譬えてもいいかもしれません。


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また余談ですが、明治期の新生・明治政府は西洋諸国の優れて技術文明を、正しく必死となって物学びして、欧米人から「猿真似」と嘲笑を買いましたが、その諸事万端、猿真似上手の日本民族が、西洋の最新技術を学んで、それを糧として独自の強みとして活かし、維新後38年にして西洋の超大国の1つであるロシア帝国(ロマノフ王朝)を日露戦争で撃破したのですから、元来日本人というのは、家康のように『諸事物学び上手』『優れた吸収力』といった気風を持っているかもしれません。
 
1590年8月、家康は父祖代々の領地であった三河国(愛知県東部)をはじめ遠江国・駿河国(ともに静岡県)・甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)一部の5ヶ国(約130万石)を手放し、箱根の天険を越えて、関東(関八州)の新領地に移転しました。それまで関東地方に縁もゆかりもなかった家康および徳川家臣団を故地である三河から関東へ転封させたのは、時の権力者・豊臣秀吉であることは周知の通りでございます。

天下人・秀吉最後の強敵であった関東の覇者・後北条氏を小田原征伐で滅ぼした直後に論功行賞を行い、豊臣軍の一員として奮戦した家康を第一等と賞し、後北条氏の旧領を含めた関東を恩賞して家康に与えたのであります。

『関八州といっても、当時は穫れ高は東海地方よりもずっと低かったのである』
『江戸が百万の人口を養うべく自然に存在した土地ではなかった』

と以上のことを書いておられるのは、歴史作家の司馬遼太郎先生(『街道をゆく36 本所深川散歩 神田界隈』)でありますが、この時、家康に与えられた関八州の総石高は250万石(内10万石は家康次男・結城秀康所領)と言われていますが、人口少なく殆ど未開の地であった草深い関東が200万石以上を越える豊饒な大地であったはずがありません。寧ろ織田信長や家康が本拠としていていた東海地方、そして近江国(滋賀県)を含める近畿地方が戦国期当時から国内有数の穀倉地帯かつ商工業が発展した地域でした。

秀吉の手によって先祖代々の本貫地であり、豊かな東海・精強な兵力が輩出される旧武田領の甲信2ヶ国を没収され、更に東国である所縁もない~寧ろそれまで敵対勢力であった後北条氏の本拠である~不毛の関東に転封された徳川家臣団たちは大いに不服であったことは徳川関連の史料が伝えるところであります。また自分たちの大将である家康が秀吉に関東転封を従ったばかりか、秀吉と相談して関八州の州都を、武家の古都というべき鎌倉、後北条氏の城下町として関東随一の繁栄を極めた小田原でもなく、侘しい田舎町『江戸』に定めたいうのですから、転封当初の徳川家臣団の心中は怒りと陰鬱さでいっぱいであったことでしょう。

江戸中期の兵学者である大道寺友山(1639~1730、後北条氏の重臣であった大道寺政繁の子孫)が著述した『岩淵夜話別集』という古文書があり、家康の事跡を年代順に書き収められています。その第3巻33話に家康が江戸入府した折の江戸の荒涼ぶりの以下の通りに述べています。

『その頃迄の江戸は東の平地の場所は何処も彼処も海の入り込んだ芦原であり、町屋や侍屋敷を十町迄も割付けられる様子では無く、一方西南の方は茫々と萱原が武蔵野へ続き何処が果てとも分らない。』
 
更に家康の新居城となるべき戦国初期(15世紀後半)の名将・太田道灌が築城した『江戸城』の粗末さについても触れています。

『城と云っても昔から一国を持つ大将の住んだ物ではなく、上杉家の家老大田道灌斎が初め設計・築城したもので、其後は北条家の遠山が居住しただけであり、城も小さく堀の幅も狭く門や塀も簡単な様子なので、関八州の太守の御座城となるような物ではないと人々が考えたのも当然である。』

(以上、参考元:大船庵さんHP


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正しく当時の江戸は、前述の司馬先生が書いておられる『江戸が百万の人口を養うべく自然に存在した土地ではなかった』散々たる不毛地帯であり、家康とその家臣団が、これから人のみの手によって行っていかなければならない江戸建設の艱難辛苦を想像すると、筆者でさえも暗澹たる気持ちになってしまいます。事実、家康は江戸城下町に建設して人口および財力を蓄積する以前に、湿地帯の埋立による基礎工事や水路の開削(掘割)、そして最も重要課題であった飲料水確保を解決しなければいけない苦境に立たされることになるのであります。飲料水確保で活躍したのは、先出の門井先生の名作『家康、江戸を建てる』の主人公の1に人である大久保藤五郎忠行(後の主水、?~1617)でありますが、この飲料水確保の事柄についてはまた別の機会に紹介させて頂きたいと思います。

想像するに家康も内心、彼の家臣団と同様に湿地帯に覆われた江戸の荒れぶりに暗い気持ちになり動揺したことはあったでしょうが、家康は持ち前の粘り強い性格、そして物真似上手の能力を最大限に発揮したのが、この江戸開発の時であります。

家康は、江戸を開発する折に当時、首都・京都に次ぐ経済主要都市(城下町)を見本としました。それが、家康と徳川氏を関東に追いやった張本人・秀吉の首都である『大坂』であります。(ここから少し秀吉や大坂の事を長く記述させて頂きますが、大坂と江戸の共通性を紹介するためには不可避なことなのでご容赦下さいませ)

『大坂』と『江戸』、地理的環境が実に酷似しているのであります。その共通点を以下の通りに列挙させて頂くと、主に2つあります。

①広大な平坦地(実は湿地/デルタ地帯)を有し、その中には当時の流通大動脈となる複数の河川が流れている。(大坂の場合は淀川、大和川、江戸の場合は古利根川、荒川、入間川など)
②優良な湾港を隣地にある。大坂の隣地には当時国内最大の貿易都市の「堺港」があり、江戸には東国~西国の流通拠点であった「品川湊」がある。

秀吉は、家康が関東に入部する際に、『小田原の東にある江戸という町を本拠にするのが良いでしょう』と家康に薦めたことが、先出の岩淵夜話別集など各史料が伝えております。また秀吉が表向きは好意的な態度で家康に江戸本拠案を薦めているが、心底では豊臣政権ナンバー2の実力者である家康と徳川氏を僻地である江戸に左遷して、江戸開発で徳川の財力や人員を疲弊することを画策していた、という秀吉の陰険ぶりも史料が強調しているところであります。

豊臣の天下支配を確固なるものにするために、家康を故郷であり豊饒な東海地方から追い出し未開の地が広がっている関東に封じ込めたのは、秀吉やその側近たちの政策であったかもしれませんが、秀吉が徳川の新本拠として家康に江戸の地を推薦したのは、秀吉個人の好意的助言であったと思われます。恐らく家康も内心では江戸の荒みように閉口しつつも、南方には中世期から関東の物流拠点であった品川湊などがあり、江戸の将来性を信じていたことでしょう。その証左として、秀吉没後に関ヶ原合戦(1600年)に勝利し、天下の覇者となった家康は故郷である東海などには戻らず、ましてや畿内にも本拠を移転せず、動かざる山の如しという態度で、江戸を天下の首府として定めているのですから。

秀吉サイドに話を戻します。旧主君であり政治軍事の師匠格であったであろう織田信長から経済流通のノウハウを独習し、経済発展の重要性を知り尽くし、「今後はより一層経済流通が重要になってくる」と考えていた秀吉であるからこそ、自分の首都であり繁栄している大坂、そして、大坂と地理的条件が酷似している、即ち後々の経済的発展性を大いに望める江戸の将来性を感じていたに違いありません。 

「それでは、江戸という地を家康に与えて、もし将来大発展してしまえば、徳川の勢力を勢い付かせてしまうではないか?」という疑問点が出てきますが、先述のように、秀吉は経済流通を何よりも重視していた偉人であり、戦国期まで各地方独自で発展していた地方経済および産業を、自分が全国を統一することにより、一つに纏め上げて全国共通の経済流通システムを確立し、各地方の多種多様の物資産物を大坂に集積して、地方に販売流通させることにより豊臣氏および日本全国の経済力向上という巨大な構想を秀吉は持っていました。つまりは豊臣エンタープライズ計画と言っていいでしょうか。

拠って、秀吉が関東の江戸が地方都市として発展してくれたら結果的に全国経済、つまり天下人である自分の懐が潤うから、家康に将来有望な江戸を薦めたのでしょう。しかし、秀吉にとって大きな誤算=家康にとって嬉しい誤算は、まさか後年、江戸が京都や大坂を超越して世界有数の大都市になってしまったということでしょう。流石の秀吉や家康も今日の東京の姿を観れば驚愕することでしょう。


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秀吉が最後の大敵である小田原の後北条氏を滅ぼし、家康を関東に異動させた時、秀吉の本拠地である大坂の城下町は京都に次ぐ殷賑を極めていた経済流通の大都市になっていましたが、大坂という大陸・南蛮貿易の主要ルートである瀬戸内海を有し、淀川を通じて首都・京都へ繋がっている要地であることに気付いた偉人は、先ず浄土真宗本願寺派の中興の祖とされる「蓮如上人(第8世宗主、1415~1499)」であります。

1496年、蓮如は湿地帯に囲まれている大坂平野の中で唯一の台地であった上町台地に本願寺の総本山となる大伽藍「石山本願寺(大坂本願寺)」を建立し、その周辺には多くの職人、技術者、浄土真宗信者などを集住させた上で「寺内町」を築き、強固な経済力を保持するようになって本願寺は絶大な宗教勢力に成長、戦国期には信長、上杉謙信、家康など多くの戦国大名を苦しめた「一向一揆」となり、石山本願寺=大坂は一向宗の総本山となります。

蓮如に続いて、大坂の重要性に着目したのが信長であります。経済(貨幣)の力を知り尽くし、天才デベロッパーであった信長が京都と海外貿易の出入口である大坂を見逃すはずがなく、信長は蓮如以来、本願寺の総本山となっている大坂を自分に明渡すように一向宗(当時の法主・顕如)に強要。それに一向宗は反発し、結果、10年以上(1570~1580)にわたり続いた信長と一向宗の戦い・石山合戦の一因となっています。

何とか一向宗を和睦によって大坂から退去させ同地を我物にした信長でしたが、その2年後に本能寺の変で横死。信長(織田政権)の後釜にすわった羽柴秀吉が大坂を本拠として定め、天下一の経済流通都市にするべく、石山本願寺跡地(上町台地)に大城郭・大坂城の築城および都市開発(町割)を開始しました。

秀吉も信長に匹敵する都市開発や建築に通暁した「土木の天才」であり、大坂を巧みに開発してゆきます。湿地が多いデルタ地帯を埋め立てたり、堀(水路)を縦横に開削し、その土で低地を埋め立てたり、乾いた土壌に変換させ武家屋敷や商人町を築けるようしました。また堀を大坂城や町の防備目的のみで開いてゆくのではなく、淀川や大阪湾に繋げ、物資などを大量かつ容易に搬出入可能させ、経済流通を大いに活性化させました。後に最晩年の秀吉は、京都の南に位置する、即ち京都~大坂の世要衝であった伏見の地にも伏見城と城下町を築きますが、これも経済通の秀吉が更なる財力を手に入れるための都市開発であったのであります。

学び上手の家康も秀吉の大坂城下町の町割(伏見を見本とした説もありますが)を見本として、江戸の城下町建設を行っているのであります。家康が江戸入府した直後に町割の一環として、水路(人工河川)の開削普請を実施しています。その好例が「道三堀」や「小名木川」であり、共に江戸草創期の重要な水路でしたが、特に現在でも都内江東区北部を流れる小名木川は、下総国行徳(現:千葉県市川市および浦安市)の特産品である塩など生活必需品を江戸に運搬するために開かれた直線水路であり、江戸中期になると成田山詣の旅客の水運、明治期では商工業の用水路として重宝されてました。

水路を開削して湿地帯の水捌けを良くしたり、余った土で低地を埋めて土地改良を根気良く行ってゆきましたが、これも秀吉と大坂という見本があったからであります。そういう意味では、『天下の都市設計の長男が大坂。次男が江戸』と言えるかもしれません。因みに三男がいるとすれば、やはり大坂・江戸と地理的環境が似ている現在の『名古屋』になると思います。ご存知のように幼少期の織田信長が居城としていた場所(那古野)でありますが、天下人となり財力も人財も豊富であり、江戸開発の経験を活かした家康が同地を都市開発を敢行し、これが現在の中部地方最大の都市・名古屋市の発展の礎となっています。

家康という人物は、壮年期には敵対勢力ながらも武田信玄を深く畏敬し、その政治軍事・開発技術など全てを真剣に学び取り、秀吉に拮抗できる勢力(小牧長久手の戦いでの実戦勝利)になりましたが、そして晩年期に近付くと、今度は一度干戈を交えた秀吉からも家康は豊臣氏が有する優れた経済構想や都市開発技術を学び取り、江戸の都市開発や江戸幕府の天下政治に活かしてゆきました。

筆者が尊敬する日本戦国史の泰斗でいらっしゃる静岡大学名誉教授・小和田哲男先生がご執筆された『NHKさかのぼり日本史(7)戦国 富を制する者が天下を制す』(NHK出版)の中で、以下の通り記述されておられます。

『家康は秀吉の真似をし、自分なりの形に磨きをかけ、完成させただけなのです。実際、秀吉は金儲けに関しては天才ともいえる才能の持ち主でしたから。ゆえに、ある意味で言うと、家康は「秀吉に学んで」「秀吉を潰した」のです。これはまったく歴史の皮肉と言うしかありません。』

(以上、「第1章 徳川家康 富の独占」文中より)


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上記に紹介させて頂きました小和田先生の文は、家康と秀吉の経済政策について述べておられるものでありますが、都市開発についても全く同様のことが言えるのであります。秀吉の大坂を見本とした江戸の家康が豊臣を潰し、江戸を大坂を越える都市へと成長させた、と。好意によって家康に江戸を薦めてしまった秀吉からこれほどの皮肉はないでしょう。

1点だけ秀吉が家康および後年の徳川幕府に一矢報いた結果になったのは、土木と経済の天才である秀吉が大坂に構築した経済流通システムが精巧かつ盤石なものであり、家康によって豊臣氏が滅亡された後でも大坂は、全国における経済流通の中心として君臨し続け、俗に言われる「天下の台所」として江戸期日本国を運営していく上で重要な機能を果たしてゆくことになってゆくのであります。

豊臣滅亡後でも、家康および江戸幕府は故・太閤秀吉の遺徳および声望を病的なほど怖れ、豊臣大坂城や豊国廟を徹底的に破却し、江戸期を通じて秀吉および豊臣方を礼賛するのも禁忌(タブー)された風潮が横行しましたが、秀吉の創った大坂を中心として構築された経済流通だけは幕府も遂には潰せなかったのです。これが既に泉下にいる秀吉が江戸幕府に対して報いた一矢であったと思えるのであります。

(寄稿)鶏肋太郎

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