戦国最大のミステリー本能寺の変~信長の遺体はどこへ?


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戦国最大のミステリー、いや日本史最大の不可思議と言っても過言では無い「本能寺の変」だが、今回は織田信長の遺体の行方について色々と調べてみた。
一般的には、明智秀満が本能寺の焼け跡をくまなく探したが、ついに織田信長の遺骸を発見することができなったとされる。

そもそも遺体を見つける必要があるのか?

初歩的な疑問であるが、余り戦争の歴史をご存じない方は、織田信長の遺体を発見する必要性があるのか?と思うかも知れない。
これは、織田信長を襲撃した以上、明智光秀は絶対に信長の首を発見する必要がある。
理由は簡単だ。
殺害したぞと言う話だけでは、信じてもらえないかも知れない。
近年であれば、アメリカがアルカイダのビンラディンを殺害する事に成功したと言っていたが、その遺体がニュース報道された訳でも無いので「本当なのかな?」と言う印象を持ったこともあっただろう。
このように「証拠」を示さなければ、世の中の人々は疑問にも感じて、ヘタをすれば「実は生きている」と言う噂まで発生してしまう。
そのため、本能寺を襲撃した明智光秀に取っては、信長の首は絶対に見つけなくてはならないものであり、一族の明智秀満に命じて探させたのだ。
しかし、歴史の解釈上では、遺体は見つからなかったとされている。

その結果、明智光秀が畿内の諸将に、織田信長を討ち取ったから味方してほしいと手紙を出しても「首」を京で晒してはいなかったため「本当なの?」「もしかしたら、織田信長は逃亡していて軍を整えたら再起するのでは?」と疑問が生じ、明智勢に味方することができないのである。
実際に織田信忠の首も、介錯した鎌田新介が二条城にて隠したので、明智勢は手に入れていない。

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では信長の最後はどんな感じだったのか?

織田信長の最後を知る手掛かりは、ルイス・フロイスの記録からうかがえる。

本能寺に侵入した明智勢が、織田信長を発見すると、背中に矢を放った。
織田信長はその矢を引き抜いて、長槍のような長刀で抵抗し、しばらく戦ったが、やがて腕に銃弾を受ける。
すると、自らの部屋に戻り、戸を閉じて、そこで切腹したと言われ、生きながら焼死したと言った。

としている
要するに、ルイス・フロイスも人から聞いた話として記述しているのだが「どのように彼が死んだのかは判っていない。その名だけで万人を戦慄せしめた人間が、毛髪や骨1つ残さず、灰燼に帰した」としている。

また、小瀬甫庵の「甫庵信長記」においても

「御首を求めけれどもさらに見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も恐れはなはだしく、士卒に命じて事のほかたずねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさえ見えざりつるなり。」と記している。

そのため、通説では遺体は見つからなかったとなっているが、いくら本能寺が火災で焼失したと言っても、焼死体が見つからないと言う事は有り得ないので、これまたおかしな話なのである。

本能寺に集めていた火薬が爆散して、遺体がバラバラになったのでは唱える方もいるが、もし爆死であれば、夜が明けようとしていた京都中に大きな爆発音が響いただろうし、そうであれば信長の遺体は爆発で見つからなかったと記載するのではないかと考える。
しかし、フロイス、小瀬甫庵ともに爆発物に関する記述は無い。

信長の首は家臣が持ち去ったのか?

織田信長の遺体が見つからなかったと言う事は、信長の首が見つからないと言う事である。
そうなると、もしかしたら、信長の家臣が、主君の首を明智光秀に奪われないようにと、首だけを持って逃げて隠したとは充分に考えられる。
実際、同じく襲撃を受けて二条御所で自決した織田信忠の首級は、家臣の鎌田新助が主命に従い持ち去っている。
その後、織田信忠の首の首の行方は、同様にわかっていない。
もしかしたら、信長の首は、本能寺に居たたくさんの茶坊主などによって、人知れず埋葬されたのかも知れない。

興味が湧くのは、最後まで信長に付き従っていた黒人の弥助である。
弥助は明智勢に見つかって捕らえられ、尋問を受けるも、のちに放免となっているが、それ以降、弥助の動向については不明なのだ。
このように明智勢は、6月3日、4日と、京都にいた織田家の家臣の大規模な残党狩りも行っており、一部は六条河原で斬首もしている。

もっとも、明智勢が一番警戒したのは、織田信長が本能寺から逃れることだったであろうから、本能寺は完全に包囲している。
そのため、織田家の家臣でも逃れる事は難しかったであろうから、首を持ち出す事は非常に困難であったに違いない。

阿弥陀寺にある信長と信忠の墓?

本能寺からほど近いところにある阿弥陀寺の「信長公阿弥陀寺由緒之記録」によると、阿弥陀寺の住職・清玉上人が、僧徒20人ばかりを連れて本能寺に駆けつけ、本能寺の裏手にある墓地にある藪の中で、織田勢の数人が信長の遺体を焼いていたので、頼んで骨をもらい受けたとある。
そして、本能寺の僧のような顔をして、本能寺から持ち出し、阿弥陀寺にて供養したそうだ。
しかし、これは江戸時代の1718年に記載された記録であり、信憑性に関しては疑わしい部分もあるが、本能寺の変から約1ヶ月後である7月11日に、山科言経が阿弥陀寺にて、信長以下本能寺の犠牲者を弔ったとの記録が残っている。


さて信長の遺体はどうなったのか?

本能寺は地下道で南蛮寺と繋がっていたと言う説もある。
織田信長は、その逃走用のトンネルに入り、南蛮寺の出口の方が塞がれていたため、逃れることができず、もはやこれまでと、トンネルの中で果てたと言う説もあるが、もちろん確証はない。
とは言え、現実的に考えて見ると、本能寺は火災になって焼失した訳であるから、遺体も丸こげ状態になったのではと考えて良いだろう。
そうなると、見た目ではもう誰だがわからなかったのか?
仮に、明智光秀にそれらしき遺体と言う事で、届けられたとしても判別がつかず、そんな誰だかわからない首を晒すのは、逆効果だと考えたのかも知れない。
このように、結果的に織田信長遺体は「見つからなかった」と言う事になってしまったと解釈するのが、妥当なのだろうか?

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  1. 2015年 11月 19日

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