惟政(いせい)をわかりやすく解説~本国よりも異国で尊敬された李氏朝鮮の高僧・松雲大師

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太田先生

惟政とは

徳川家康と縁の深い外国人と言うとウィリアム・アダムズやヤン・ヨーステンと言った欧州人が有名ですが、東アジアにも家康ひいては徳川政権と斬っても切れない関係にある人物がいます。それこそが、本項で紹介する李氏朝鮮の使者として活躍した僧侶・惟政(いせい、韓国語でユ=ジョン)、またの名を松雲大師です。

惟政は朝鮮王朝の中宗38年(1543年、翌1544年説もあり)に、今の韓国慶尚南道密陽郡で生誕しました。俗人時代の姓は任氏と言った惟政は13歳で得度し、18歳の若さで科挙の僧科に合格する秀才で、直指寺の住職を経て平安北道の妙香山(現在の北朝鮮)に住む高僧で西山大師の異名で崇敬された休静の門人となります。彼に師事した惟政は3年もの間苦行に明け暮れ、31歳で大悟しました。


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当時の朝鮮では儒教とその影響下にあった文官が強い力を持ち、惟政のような仏教僧は極めて低い地位におかれていましたが、そんな彼が歴史の表舞台に登場する事件が起こります。それこそが、大陸侵攻すなわち唐入りを目論む豊臣秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮側の呼称では壬辰倭乱)でした。

抗日戦の末、加藤清正に出会う

李氏朝鮮は秀吉が派兵した日本軍の猛攻に手を焼き、当時の国王であった宣祖は僧侶までも駆り集めて義僧兵を編成し、惟政の師匠である休静を僧兵の指揮官・八道十六宗都総摂に任命します。この時70を過ぎていた休静は惟政にその任務を譲り、彼は5000の僧兵を率いて出陣し、相次ぐ激戦を勇敢に戦い抜きます。我が国とゆかりの深い外交僧・惟政ですが、彼と日本と初めて出会ったのは戦いの場だったのです。

1594年(日本の文禄3年)、彼は朝鮮遠征中の加藤清正のもとを3度も訪れ、講和に向けて交渉を行います。この頃、日本の小西行長と明の沈惟敬も講和交渉をしていたのですが、それは戦場となった朝鮮の頭越しに行われたばかりかそれぞれの本国へ虚偽報告をしているなど、問題の多いものでした。

それに比較すると清正と惟政の対談は互いの意見を真摯に述べ合うもので、そうした対談を命の危険を覚悟で自ら持ちかけた惟政の人柄は、対峙した清正をして以下のように評されます。
『貴国(朝鮮)で偽りのないのは貴殿(惟政)だけであり、他の人は信用できない』
この交渉は実ることはなかったものの、清正は惟政との対談を秀吉に報告、対して行長と惟敬の嘘による講話は破綻することとなったのです。また、この時に日本人との間に作った人脈は、後に惟政と李氏朝鮮を大いに助けるものとなります。

家康に信頼され、両国に長き平和をもたらす

秀吉の死で李氏朝鮮の国難は去りますが、李朝の朝廷では攻め込まれた自国が講和の使者を送るのは屈辱とする一方で和睦を望んでもいたため、民間人で僧侶、おまけに清正ら日本人の間で知名度があった惟政に白羽の矢を立て、『探賊使』として日本に向かわせました。時に1604年(慶長9年)のことで、対馬の領主である宗義智に送られて京都に入った惟政は翌年の3月に家康・秀忠に謁見します。なお、この年に惟政の恩師である休静が逝去しました。


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伏見城に惟政を招いた家康も清正と同様に彼の人柄に感じ入り、外交僧として対馬宗氏に仕える景轍玄蘇や京都相国寺の住持・西笑承兌など漢詩に優れた日本の知識人に出会った惟政は自らも得意としていた漢詩のやり取りで交流を温めます。惟政と日本の人々との交流は秀吉軍が捕らえた朝鮮人捕虜の帰国を推し進め、1607年(慶長12年)には江戸時代になって初めての使節である回答兼刷還使が来日し、その際に1300人が帰国しました。この使節こそが12回に渡って江戸期の我が国と李氏朝鮮の国交を結ぶことになる朝鮮通信使の始まりです。

日朝の国交正常化、捕虜になった自国民の帰還が叶ったことを見届けたかのように、惟政は1610年に逝去します。これほどの大功を為し得た人物に対しても、仏教を軽く見て儒学を絶対視する李朝の対応は冷淡でした。それは比叡山や一向一揆のように仏教寺院が強い力を持ち、僧侶を学者や外交官として厚遇した日本とは正反対で、まさしく惟政は本国で冷遇されて異国である日本で絶大な尊敬を得たのです。

朝鮮通信使による両国の和睦は、朝鮮側が捕虜返還ばかりか王墓盗掘の犯人引き渡しと謝罪を求めたこと、日本側も宗氏による国書の偽造や、朝鮮の使節を朝貢と解釈するなど、まさに茨の道でした。しかし、朝鮮出兵で破綻した両国の国交を回復させたのは、死を厭わぬ惟政と彼の偽りなき心を受け止めて自らも毅然とした誠意で交渉した清正はじめ、日本の人々であることは言うまでもありません。


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最後に、2017年に『朝鮮通信使に関する記録』が世界の記憶に登録された際、その内容を巡って日韓双方で自国の正当性を主張すると共に、相手の国を悪と見なして低く見る傾向が見受けられたことも記憶に新しいと思います。しかし、その通信使を成立させたのが嘘偽りのない真心と知性を忘れなかった一僧侶・惟政と、彼と対峙した日本の武将達の努力であったことを、改めて書き記して筆をおかせて頂くことに致します。

(寄稿)太田

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