朝倉景鏡~朝倉家を最後に裏切った筆頭一族

亥山城

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朝倉景鏡

朝倉景鏡(あさくら-かげあきら)は、朝倉家10代当主・朝倉孝景の弟である朝倉景高(あさくら-かげたか)の子となり、母は権中納言・烏丸冬光の娘です。
1525年に生まれたとされています。
父は、兄・朝倉孝景と不和となり、越前の大野郡司を罷免されましたが、子の朝倉景鏡は継承できたようです。
朝倉一族衆ま中でも朝倉景鏡は筆頭であり、度々、朝倉勢の総大将として出陣も果たしており、金ヶ崎の戦いでも、逃げる織田信長を追撃しました。


しかし、父がそうであったと同じく、越前朝倉氏第11代当主の朝倉義景とは、次第に馬が合わなくなったようです。
そして、1572年、織田信長が浅井長政小谷城を攻めた際にも、援軍として朝倉勢を率いた朝倉景鏡でしたが、この時、同行していた朝倉家の重臣である前波吉継桂田長俊)、富田長繁、毛屋猪介らが次々に織田勢税に寝返りました。

1573年に再び、織田勢が小谷城を囲むと、朝倉景鏡は合戦続きで疲労がたまっていると言う理由で、出陣を拒否します。
そのため、当主の朝倉義景が自ら兵を率いて浅井長政を助けようとしましたが、逆に大敗を喫して、命からがら一乗谷城に帰還します。
更に、織田信長は越前に攻め入ったため、兵の立て直しが不可能な当主・朝倉義景に対して、朝倉景鏡は自領の大野に逃れて再起を図るよう進言しました。
そして、当主・朝倉義景は小少将、愛王丸ら妻子を連れて、亥山城近くに用意された賢松寺にて宿泊していました。
この賢松寺は、現在、存在していないため、推測となっていますが、現在の曹源寺辺り(下記写真)ではないかと考えられているようです。

曹源寺

この大野・洞雲寺は、二宮左近将監の庇護を受けて、1455年に薩摩国日置郡の元勅が開いた寺となります。
江戸時代には、朝倉義景の墓もありましたが、のち朝倉義景墓所の場所に移されています。

しかし、朝倉景鏡は裏切って、200騎にて賢松寺を包囲し、朝倉義景を自害に追い込み、妻子を捕縛しました。
そして、朝倉景鏡は義景の首級と、捕縛した母親・高徳院と、妻子・近習らを織田信長に差し出し、降伏が許されていますが、戦国大名としての朝倉氏は滅亡したのです。

こうして、朝倉景鏡は亥山城(土橋城)の本領安堵となり、城の名前と織田信長から一字を貰って、名前を土橋信鏡と改めました。
しかし、天正2年(1574年)に、桂田長俊を滅ぼそうとした、富田長繁の一揆が越前一向一揆に進展します。
そのとき、2万の一揆軍の大将・杉浦玄任は、織田家の家臣にっていた溝江長逸、富樫泰俊らも討ったため、朝倉景鏡は城を捨てて平泉寺に籠りました。
しかし、一揆勢が迫ると果敢に戦い、家来もわずか3騎となると突入して、朝倉景鏡は討死したと伝わります。
遺児の12歳と6歳の子は、捕らえられて処刑されました。

こうして、越前全域を一向宗門徒が支配すると、本願寺から杉浦玄任(すぎうら-げんにん)が大野郡司に任命されて、亥山城(土橋城)を居城としています。

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  • コメント (1)

    • いくさびと
    • 2019年 1月 12日

    朝倉義景は、信長包囲網の足を引っ張った凡将・愚将と見られがちですが、果たして本当にそうなのでしょうか。一族や有能な家臣に立て続けに見限られたあたり、どこかのほほんとした空気があったようにも思えますが、私が注目したいのは一乗谷の戦いよりも金ケ崎の戦いです。浅井長政を味方につけました。これは信長も秀吉も家康も光秀(かつての家臣)も読めず、結果大敗を喫します。浅井には朝倉への恩義があったのは事実でしょう。しかし、義兄を裏切るまでの行動に出たのは信長の専横が過ぎたのか、あるいは義景には人を引き付ける魅力があったのか…
    「麒麟が来る」では光秀の前半生を描くにあたり、朝倉義景は相応のキーパーソンになると思われます。違う義景像を期待したいです。

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