掛川城
掛川城は、駿河の守護大名・今川義忠が、重臣・朝比奈泰煕に命じて、文明年間(1469年~1487年)に築城されたとされる。
朝比奈泰煕が城主となると、朝比奈泰能・朝比奈泰朝と、代々朝比奈家が城主を務めた。
1568年末、甲駿同盟が破たんして、12月6日に武田信玄が駿河侵攻を開始。
今川氏真は、崖で大軍の行動が取れない、、東海道の三大難所でもある「薩た峠」(さったとうげ)で、武田勢を迎え撃とうと、庵原忠胤に15000の兵にて出陣させ、自らも興津の清見寺まで出陣した。
上記が「薩た峠」(薩埵峠)から駿河湾を望む写真。
よく台風などの際に、ニュースなどでも放送される東名高速が海岸沿いを通る「由比」の場所である。
戦国時代には海岸沿いではなく、この崖で狭い山道を通過する必要があった。
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今川家の滅亡
1568年12月12日より、さった峠の東側で戦いが始まり今川勢は地の利を生かして峠を守った。
しかし、今川家は既に内部崩壊しており、瀬名信輝や葛山氏元・朝比奈政貞・三浦義鏡など駿河の有力国人が21名も、武田信玄や徳川家康に内通し、12月13日は身の危険を感じて、今川氏真は駿府の今川館に撤退し、賤機山城に籠城しようとした。
当主・今川氏真が逃亡したと知った今川勢は総崩れとなり、武田勢は薩埵峠を突破し、その日のうちに駿府まで侵攻した。
また、武田重臣の馬場信春が先に賤機山城を占拠したため、今川氏真は朝比奈泰朝の居城・掛川城へと逃れた。
この時、北条氏康の娘であった今川氏真の正室・早川殿は、輿などの乗り物も得られず、徒歩で掛川城に入ったという。
この事に怒った北条氏康は、武田信玄との同盟を破棄することとなった。
そこへ、今度は西から徳川家康が攻めてきて、掛川城を包囲。
武田信玄は事前に徳川家康と、大井川の東は武田、大井川の西は徳川と、今川領を分けようと話をしていたのだ。
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朝比奈泰朝と今川氏真は掛川城に約3ヶ月籠城したが、主君・今川氏真の命は助けると徳川家康が認めた為、1569年2月8日、掛川城主・朝比奈泰朝は徳川家に降伏した。
事実上、戦国大名としての今川家の滅亡である。
降伏後、朝比奈泰朝と今川氏真は、相模の北条氏康を頼って小田原城へ赴いた為、掛川城には城代として徳川家の重臣・石川家成と、石川康通の親子が入った。
早川殿は、伊豆の戸倉城に移っている。
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駿河に入った武田信玄が約束を破る動きを見せたため、徳川家康は、大井川の西岸にあたる。
掛川城から程近い牧之原台地に諏訪原城を築城。
さらに掛川城の南方にある高天神城では武田と徳川で激しい攻防戦が繰り広げられた。
しかし、掛川城は1582年に武田勝頼の武田滅亡まで、徳川家が領有した。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めで、徳川家康が関東に移封すると、掛川城は山内一豊が5万1000石(のち5万9000石)として城主となる。
山内一豊は掛川城を改修し、石垣・瓦葺の建築物や天守など、近世城郭にした。
その後、1600年の関ヶ原の戦いの際には、東海道から関ヶ原を目指す徳川家康の為に、山内一豊は掛川城を「自由に使って下され」と、真っ先に提供した事でも知られる。
そんな功もあり、山内一豊は土佐一国を与えられて高知城に移ると、その後、掛川城には徳川家康の異父弟・松平定勝が3万石で入った。
しかし、江戸時代には、安藤直次、松平定綱、朝倉宣正、青山幸成、松平忠重、本多忠義、松平忠晴、北条氏重、井伊直好、松平忠喬、小笠原長煕、太田資俊と目まぐるしく藩主が変わった。
幕末の1854年の安政東海地震で、掛川城の天守や大半の建物は倒壊。
二ノ丸御殿は1861年に再建されたが、天守は再建されることはなかった。
現在の掛川城天守は、1994年4月に再建された日本初の木造復元天守である。
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