藤原公任とは~平安時代随一の文化人で愛娘の死を哀しんで官を辞し出家した才能ある公卿

藤原公任

皆さんの周りには、何でも出来てしまうような才能に溢れた人はいますか?
私も思い返すと、勉強も運動もできる子が学校のクラスにたまにいました。

歴史上にも文武両道で有名だった人物が何人か思い浮かびます。
その中から、平安時代中期に活躍した公卿であり歌人の藤原公任について紹介します。

名門のサラブレッド藤原公任

藤原公任(ふじわら-の-きんとう)は、父・藤原頼忠と母・厳子女王の長男として966年に生まれました。
父の藤原頼忠は、名門・藤原北家の嫡流であり、円融天皇花山天皇の関白(天皇の代わりに政治を執り行う役職)も務め、のち太政大臣となる平安時代中期の公卿です。
また母の厳子女王は第60代醍醐天皇の第三皇子・代明親王(よしあきらしんのう)の娘となります。
その両親の長男として誕生した藤原公任はまさにサラブレッドでした。


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天元三年(980年)、藤原公任の元服式が行われましたが、この式が類を見ない華やかさであったと言います。
なんと、式が天皇の御殿である清涼殿で行われたのです。
臣下の元服が清涼殿で行われたことはかつてなく、これは皇族と同じ扱いです。
また天皇が自ら公任に冠を与えたという史料も見られ、公任がそれほど期待されていたことが伺えます。
これと同時に昇殿を許可され、宮廷生活の第一歩を踏み出しました。
藤原公任が15歳の冬のことでした。
公任は元服後、みるみる昇進していきます。
祖父が33歳、父が37歳で得た官位・従四位上を17歳で得たのです。
これは偉業の出世でした。

この冨士和公任、和歌・管弦・漢詩など全てにおいて完璧だったと言われており『大鏡』の『三船の才』には彼のその才能を証明するエピソードが残されています。
また弓にも優れており、従兄弟の藤原道長を負かしたというエピソードも残っています。
そんな何でもできてしまった公任の神髄は和歌にあります。

歌人としての公任

藤原公任一家は非常に和歌に優れていました。
母方の家系は、勅撰和歌集という天皇の命令によって作られた歌集に載るほどの和歌を詠んでいます。
父・藤原頼忠も勅撰集に4首載っていますし、自邸に歌人を呼んで、歌合という和歌の批評会を主催していました。
また、その血を引いた公任の姉・遵子も勅撰歌人でした。
そのような家系と環境の中で公任は文芸の才能を開花させていきました。

公任は蔵人頭(天皇の秘書)や検非違使別当(今で言う警視庁長官)、勘解由使長官(地方行政の監査役)などの役職を歴任しながら、文化人としても活躍をしていきます。
中でも『拾遺和歌集』のベースともなった歌集『拾遺抄』の撰者となったことで歌人としての名を上げました。

藤原公任が歌人として名を馳せたこの頃、宮中には『枕草子』の作者として有名は清少納言も出仕していました。
ある日、公任は才女として名高い清少納言にこのような手紙を出しました。

『少し春ある 心地こそすれ』

これは「この和歌の下の句に上の句を付けて返してくださいね。」ということです。

清少納言は『枕草子』の中でこのことについて、相手が他人だったらすぐに句を付けて返しますが、差出人が公任ということで当惑し、震える手で『空寒み 花にまがへて 散る雪に』と書き付けたと記しています。
才気煥発であったあの清少納言を当惑させるほど、公任の歌人として名が通っていたことがわかるエピソードですね。

藤原公任は清少納言だけでなく、和泉式部赤染衛門、馬内侍、紫式部といった女流歌人とも交流があり、歌を詠み交わしています。
源氏物語の作者・紫式部は、藤原公任の母方のはとこ。
しかしそれは恋愛的なものではなく、彼女たちが公任の和歌の才能を仰いだものでした。
公任は女流歌人たちにとって憧れの的だったのではないでしょうか?

サラブレッドとして幸先のいいスタートを切った公任でしたが、ある時から昇進が滞り、最終的に官位にはあまり恵まれませんでした。

治安3年(1023年)には次女、治安4年(1024年)には長女(藤原教通の正室)を次々と亡くしたのが、藤原公任にとって更に追い打ちをかけたようで、出仕しなると、12月には権大納言の官職を辞任し出家しています。

小倉百人一首(55番)には彼のこのような和歌が選ばれています。

『滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ』

昔はあったという滝は枯れてしまったが、その名声だけは今も残って語り継がれている…。

枯れた滝と昇進から遠ざかる自身を重ねた無常を詠った和歌だと言われています。
漢詩・和歌・管弦の三舟の才と謳われた藤原公任でしたが、天皇と外戚関係を得られなかったこなどもあり、確かに官位には恵まれませんでした。
しかし彼が残した和歌や歌集は、彼がこの世を去って1000年近く経った今日も残っています。

(寄稿)中みうな

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