上野清信とは 足利氏の一族で室町幕府の奉公衆

上野清信




上野清信(うえの-きよのぶ)は、戦国時代に備中・鬼邑山城主である上野信孝の子として生まれました。
備中・上野氏は、足利氏の一族で室町幕府の奉公衆を務めた家柄です。
1493年、明応の政変のあと足利義稙が将軍に復帰した際に、命を受けて備中・鬼邑山城を任されました。
また、備中・松山城には、一族の上野頼久が入っています。
そして、父・上野信孝は、木下昌規、進士晴舎と並ぶ、足利義輝の側近でした。
そのため、伊勢貞孝、大舘晴光、朽木稙綱ら奉公衆と対立もあったようです。

1563年に父が死去すると、上野清信が家督を継いだようです。
上野清信の姉は、同じ奉公衆の真木島昭光(槙嶋云庵)の正室のようです。

1565年、将軍・足利義輝は、三好義継、三好三人衆、松永久通らから御所を攻撃されて討死します。(永禄の変)
そのあと、足利義輝の実弟で、一乗院門跡の覚慶が命を狙われると、上野清信は、覚慶(足利義昭)と共に、越前・一乗谷城朝倉義景を頼って逃れました。


そして、一乗谷城にて足利義昭を支えたとありますので、明智光秀とも面識を得たものと推測します。
しかし、足利義昭の挙兵に朝倉義景が強力しなかったため、尾張の織田信長の保護を受けるようになりました。
1568年、足利義昭が織田信長と共に京に上洛した際にも、上野清信は従っています。

やがて、足利義昭と織田信長が対立すると、上野清信は槇島城への籠城を勧め、伏見城にて抵抗した三淵藤英と共に織田勢を迎え撃ちます。
ただし、この過程で、伊勢貞興・日野輝資・高倉永相など奉公衆は退去し、細川藤孝荒木村重・明智光秀らはすでに織田信長に鞍替えしており、槇島城の戦いに敗れ、室町幕府は滅亡しました。

その後、足利義昭は、毛利輝元を頼って備後・鞆城へ逃れましたが、先年の1575年に、備中・上野氏は、毛利家によって滅ぼされていたこともあり、足利義昭ほ見限って織田信長に寝返りました。

1582年、本能寺の変での動向は不明ですが、養子にしていた上野秀政(うえの-ひでまさ)が、明智光秀の家臣にいた模様です。

その後、豊臣秀吉の家臣となっていた上野清信は、朝鮮攻めの際に、肥前・名護屋城にも入っていますが、まもなく亡くなったようです。

上野秀政とは 明智光秀の家臣に見られる奉公衆
備中松山城 登城方法 雲海に浮かぶ天守の幻想的な姿
室町幕府13代将軍・足利義輝
三淵藤英とは 細川藤孝の異母兄・足利幕府の奉公衆の立場を貫く
足利義昭とは 信長包囲網など外交手腕に優れた最後の室町幕府将軍
槇島城 真木島昭光の居城を足利義昭が頼った歴史の舞台
伊勢貞興~名門・伊勢宗家の若き武将で明智家重臣~二条城で織田信忠を攻める

 

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