高木清秀とは 水野信元に従い武勇を馳せた徳川十六神将

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高木清秀

高木清秀(たかぎ-きよひで)は、戦国時代の武将で1526年に三河で生まれました。
通称は高城善次郎、高木主水助。
父は高木宣光で、母は酒井正信の娘となり、弟に高木清方がいます。
三河・高木氏は三河国紺碧海郡高木から起こった清和源氏流で、緒川城刈谷城を中心とした戦国大名水野信元に従っていました。
ただし、若い頃に一時、古渡城織田信秀の家臣になっていたようで、1548年、第二次・小豆坂の戦いにて戦功を挙げています。
その後、再度、水野信元の招きを受けて家臣になると、刈屋の戦い、石瀬の戦いにも参じ、水野信元が徳川家康の与力的な存在になったあとも、姉川の戦い、伊勢長島攻めなど数々の合戦で武勇を馳せました。


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ただ、1574年の伊勢長島の戦いでは、嫡男・高木光秀が討死するなど、悲運もあったようです。
長篠の戦いで高木清秀は、真田昌輝(真田幸隆の次男)とも槍を合わせました。

1575年、武田勝頼の重臣・秋山信友に内通したとして、主君・水野信元が織田信長の命にて誅殺されます。
その後、高木清秀は織田家の佐久間信盛に従い、本願寺顕如との石山本願寺攻めでは天王寺城に入りました。
松永久秀との戦い、有岡城での荒木村重との合戦にも参じたようですが、1580年、佐久間信盛が高野山に追放されると、その後の行動が一時不明となります。

1582年、明智光秀による本能寺の変のあと、甲府にて徳川家康に拝謁し、以後は徳川家の家臣となりました。
小牧・長久手の戦いや、小田原攻めにも従い、徳川十六神将のひとりにも数えられます。
1590年、徳川家康が江戸城に入ると、武蔵・上総・相模に5000石を得ました。
1594年、高木性順と称して相模・高木清秀屋敷(海老名市)にて隠居し、家督を3男・高木正次に譲りましたが、のち、河内・丹南藩となり明治まで続きました。


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1600年、関ヶ原の戦いでは、下野・小山城にて徳川秀忠より陣羽織を賜ったともあります。
1604年、徳川家康が鷹狩りの際の休憩で、高木屋敷に立ち寄ったことが見受けられます。
1610年、高木清秀は死去。享年85。

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