小西行長とは
小西行長(こにし-ゆきなが)は、1558年、和泉・堺の商人である小西隆佐(小西立佐、洗礼名ジョウチン)の次男として京都で生まれた。
母の名は、小西ワクサと呼ばれる女性で、洗礼名はマグダレーナ。
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では俳優の池内万作さんが小西行長を演じられる。
父・小西隆佐(小西立佐)は薬種商で、1562年前後に、ルイス・フロイスの師事を受けてキリシタンとなり、宣教師の使者として織田信長に拝謁もした人物であった。
※小西家の出自は薬種商ではなく、父・小西隆佐(小西立佐)と小西行長は、元々宇喜多家の家臣とする説や、羽柴秀吉が宇喜多家調略の為、小西行長を送り込んだとする説が近年は有力視されている。
1572年、18歳の小西行長は、岡山にある商家・魚屋九郎衛門の養子として入ると、商売で宇喜多直家の元を何度か訪ねており、その際に才能を見出されて、宇喜多家の家臣に御船組員として加わり武士となった。
正室の名は菊姫。同様に熱心なキリシタンで洗礼名はジュスタ。
織田信長の家臣・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、別所長治の三木城攻めを行った際には、宇喜多直家の使者として羽柴秀吉に降伏したと言われている。
織田家に人質として出された宇喜多直家の嫡男・八郎(宇喜多秀家)に付き添い、羽柴秀吉からその才知を気に入られ、1580年より父・小西隆佐(小西立佐)と共に羽柴家で重用されるようになり、父は1585年頃から河内・和泉両国の蔵入分代官となり、1581年には石田三成とともに堺政所に任じらた。
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小西行長は、豊臣政権において当初、播磨(兵庫県)の網干に近い室津で所領を与えられ、やがて、瀬戸内海の塩飽しわく(香川県丸亀市)から堺にかけての船舶を監督する水軍の大将である「舟奉行」に任命され水軍を率いた。
また、羽柴秀吉と諸大名との「取次役」としての働きも見受けられ、1584年に高山右近の後押しもあって洗礼を受けてキリシタンとなったとされるが、父親がもっと古くからキリシタンである為、以前からキリシタンであった可能性もある。
1585年には摂津守に任ぜられ、豊臣姓を名乗ることを許されているが、この頃、母・小西ワクサは豊臣秀吉の正室・おねの侍女として大阪城に上がった。
1585年の紀州征伐では、水軍を率いて参戦したが、雑賀衆の抵抗を受けて敗退したと言われている。
太田城の水攻めでは、安宅船や大砲も運用して攻撃し、開城のきっかけを作ったともいわれている。
それらの功で、1585年には小豆島10000石となり、小豆島ではセスペデス司祭を招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発を積極的に行った。
1586年の九州攻め準備の為、赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後、平戸(長崎県)に向かって松浦氏の警固船出動を監督した。
1587年の九州征伐では、薩摩・平佐城攻略の搦手口の大将として参加。父・小西隆佐(小西立佐)は兵糧を担当したようで、他にも豊臣秀吉の代理人として南蛮船が輸入した生糸の優先買い付けのため、長崎に赴いている。
1587年、豊臣秀吉がバテレン追放令を出し、改易となった高山右近や、オルガンティーノ宣教師を一時、小豆島に隠した。
1588年、一揆制圧に失敗した佐々成政の肥後国人一揆討伐で功をあげ、改易された佐々成政の肥後南半国の宇土、益城、八代の約20万石と大出世し、宇土古城に入った。
豊臣秀吉は熊本城を中心に北半分は武功派の加藤清正に、南半分を頭脳派の小西行長に与えたのだ。
肥後で小西行長は新たに宇土城を築城開始して本拠を移した。
しかし、その際に宇土城普請に従わなかった天草五人衆が蜂起(天草国人一揆)。
天草五人衆は豊臣秀吉から直接領地安堵されており、小西行長とは対等な立場と考えていたようだ。
キリシタンの多い天草衆に対して、同じキリシタンの小西行長は事態を穏便に済ませようとしたが、加藤清正が強固に軍勢を派遣した為、小西行長は加藤清正らとともに平定し、天草10000石も加増された。
宇土城は水城として優れた能力を持った城で、豊臣秀吉は、のちに計画していた朝鮮出兵を考えて、水軍統率に長けた小西行長を肥後に封じたと考えられる。
また、豊臣秀吉は八代に麦島城を築城し、小西家三家老の一人で古麓城代ある小西行重(小西美作守行重)に麦島城代を命じた。
天草はご承知の通り、70%以上の人々が熱心なキリシタンの地であり、イエズス会の活動を小西行長は支援し、領内に多くの宣教師を招いて教会や聖学校を建て、パイプオルガンや時計も作った。
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隈庄城、木山城、矢部城、愛藤寺城を支城として、隈庄城に弟・小西主殿介、愛籐寺城には結城弥平次ら一族重臣を城代に任じ、バテレン討伐令で失脚した高山右近の旧臣を多数家臣に取り立てている。
しかし、残りの肥後北半国を領していた加藤清正とは境界線をめぐって次第に確執を深めて行った。
下記写真は2016年の熊本地震で震度7を2回観測した益城町の木山城跡。
小西行長の名が広く知られるようになったのは明の沈惟敬(しんいけい)との講和交渉を小西行長が日本代表として交渉を進めたからである。
しかし、朝鮮攻めが決定すると、1592年からの文禄の役では、娘・妙の婿でもある対馬領主の宗義智と共に第一軍として6000を率いて朝鮮へ渡航。
小西行長と加藤清正の両名が先鋒となることを希望していたが、豊臣秀吉は小西行長に大黒の馬を贈って先鋒として、加藤清正を2番手とした。
小西行長らは漢城(現ソウル)を陥落させるなど進撃したが、その後はこう着状態となり、小西行長・石田三成らが中心となって和平交渉を進めた。
この時、父・小西隆佐(小西立佐)は、兵糧の後方支援を担当していたようだが、肥前国名護屋で発病すると帰国したが、1592年京都で亡くなっている。
小西行長は、1597年の慶長の役でも加藤清正と共に先鋒を任命されて、南原城攻略などで活躍したが、1598年8月、豊臣秀吉が亡くなり戦いは終結し、島津義弘らの救援も受けて殿軍(しんがり)を務め、12月に無事帰国した。
その後は、徳川家康の指示で動くようになり、1599年に薩摩で起こった島津家の内紛では、徳川家康から派遣されている。
1600年、上杉景勝の会津征伐では、徳川家康より上方残留を命じられ、関ヶ原の戦いでは、石田三成に協力して西軍として布陣した。
徳川家康寄りだったにも拘わらず、小西行長が西軍に与したのには、朝鮮出兵で強く結びついていた石田三成や、以前仕えた宇喜多家への義理、東軍の加藤清正との対立などが考えられる。
小西行長の兵力は、朝鮮出兵での消耗からまだ立ち直っておらず、意外なほど小規模だったようで、4000と言う布陣は石田三成らが貸した兵が多かったとされる。
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小西行長は天満山に布陣して東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦したが、小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継が壊滅すると、続いて小西行長・宇喜多秀家も崩れ、小西行長は伊吹山中に逃亡した。
9月19日、関ヶ原の庄屋・林蔵主に匿われていたが、観念した小西行長は自らを捕縛して褒美をもらうように林蔵主に薦めたと言う。(キリシタンだった為、自害はしなかったとされる。)
しかし、林蔵主はこれを受けず、竹中重門の家臣・伊藤源左衛門と山田杢之丞の両名に事情を説明して、共々小西行長を護衛して草津にあった村越直吉の陣まで連れて行ったと言う。
その2日後には石田三成が捕まり、その翌日には安国寺恵瓊が捕縛された。
3人は9月29日に大坂と堺で引き廻されて、10月1日、京都の六条河原にて処刑された。その後、首は三条河原で晒されたと言う。享年46。
下記は宇土城の本丸にある小西行長の銅像。
小西行長が亡くなった7年後となる1607年には、イタリアのジェノバで小西行長を主人公とした音楽劇が制作された他、1640年発行のフランス製日本地図には宇土、八代の地名がみられ、ヨーロッパでは信仰と忠義を重んじたキリシタン大名・小西行長が良く知られており、教皇クレメンス8世は小西行長の死を惜しんだと言われる。
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