亀井茲矩(かめい-これのり)は、戦国時代の尼子氏の家臣で、1557年に玉造温泉・玉造要害山城主である湯永綱(湯左衛門尉永綱)の長男として生まれました。
最初の名は湯国綱(湯新十郎)で、母は、石見・余勢城主である多胡辰敬の娘です。
1566年、湯国綱(亀井茲矩)が10歳の時に、尼子義久が月山富田城を開城して、毛利元就に降伏し、尼子氏は滅びました。
その後、尼子重臣だった湯氏一族郎党は、離散の憂き目に遭い、少年の湯国綱(亀井茲矩)は、流浪の身となります。
一説では、京都に入ると、その後、伊予にまで逃れるなど、苦難の人生を歩んだ模様です。
因幡の山宮(気高町)にいた、井村覚兵衛の所に身を寄せていたところ、同じ尼子家臣で挙兵していた山中幸盛が、因幡・桐山城を攻略します。
この1573年頃、17歳になっていた湯国綱(亀井茲矩)は、山中幸盛のもとを訪ねて、尼子再興軍に加わった模様です。
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そして、山中幸盛の養女になっていた、出雲・鈴垂城主だった亀井秀綱の次女・時子を娶って、亀井家の名跡を継ぎました。
亀井茲矩は、鳥取の私都(きさいち)城(市場城)を任されています。
尼子残党は、織田信長の重臣・羽柴秀吉の協力を得て、毛利家に対抗しますが、亀井茲矩は、天正5年(1577年)に、明智光秀の与力となって、丹波国籾井郷3000石となりました。
そして、松永久秀が籠城した信貴山城の戦いにも参加しています。
天正6年(1578年)、尼子勝久と山中鹿之助らが上月城にて、毛利勢に包囲され、降伏した尼子再興軍の活動は終わりました。
上月城の尼子勝久は自害し、山中幸盛は護送中に殺害されていますが、亀井茲矩は、羽柴勢に加わって、上月城にはいなかったため、難を逃れています。
その後、日野之房など尼子旧臣を束ねる立場となり、山中鹿之助の正室(亀井秀綱の長女・千明)や、尼子残党らを大切にしたとも伝わります。
天正9年(1581年)、吉川経家が立て籠もった鳥取城の戦いでは、因幡・鹿野城にて、毛利の援軍を撃退するなど、亀井茲矩は武功を挙げました。
そして、24歳の若さで、1万3500石にて因幡・鹿野城主の大名となっています。
1582年、明智光秀が、本能寺の変を起こし、羽柴秀吉は、中国大返しを実行しますが、このとき、毛利勢の抑えとして、鹿野城に残留しました。
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豊臣秀吉が天下人になると、垣屋恒総、荒木重堅(木下重堅)、南条元続と共に「因幡衆」として、鳥取城の宮部継潤に従いっています。
朝鮮攻めでは、因幡水軍を率いて渡海し、鉄砲にて虎狩を行うと、虎の毛皮を、京都の秀吉の元へと送った記録があります。
1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川家康に従い、少人数ながらも、関ヶ原にも布陣したようで、徳川の寄合衆として、織田有楽斎・織田長孝、津田高勝、石川貞政、佐々行政、前田五左衛門、古田重然、猪子一時、船越景直、佐久間安政・佐久間勝之、亀井茲矩、加藤光通、戸川達安、宇喜多直盛、岡田善同、野々村三十郎、川村助左衛門、村越三光、小坂雄長、生駒利豊、兼松正吉、安孫子善十郎、稲熊市左衛門、澤井左衛門尉、森勘解由、林大学、三好一任・三好可正・三好房一・三好長通、宗可政、池田重成・池田光重、佐久間定頼・佐久間正房、長谷川重成、柘植正俊、多羅尾光利、野門乙長などの名が見受けられます。
石田三成が敗走すると、亀井茲矩と池田長吉が、近江・水口城を包囲して、逃れていた長束正家を降伏させました。
その後、亀井武蔵守茲矩は、山名豊国(やまな とよくに)を軍勢に加えて、因幡に戻ると、因幡・伯耆(ほうき)の西軍を掃討します。
但馬・竹田城主・斎村政広を寝返らせ、西軍についていた、鳥取城の宮部長房、因幡・若桜城の木下重堅、因幡・桐山城の垣屋恒総らを攻略しました。
亀井茲矩は、戦後、因幡高草郡2万4200石の加増を受けて、合計3万8000石の鹿野藩主となっています。
そして、農業開発、西伯耆の日野にて銀山を発見、全長20kmにも及ぶ用水路設置などに手腕を振るいました。
また、豊臣秀吉からは琉球王の称号を得たともされ、改めて江戸幕府の承認をもらうと、朱印船貿易を行い、遠くシャム(タイ)とも交易をしています。
庶子・鈴木八右衛門を異国回船売買の総奉行として長崎に派遣すると、大船を建造して、家臣の多賀是兵衛・塩五郎太夫・梶屋弥右衛門らに、気多・高草の漁民を船夫として付けるなどして、合計3回、タイまで渡航させたとあります。
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1609年、亀井茲矩は隠居して、家督を亀井政矩に譲りました。
慶長17年(1612年)、亀井茲矩は鹿野城内の王舎城にて死去。
亀井政矩は、大坂の陣のあと、石見・津和野主4万3000石に加増転封となっています。
父の木像とともに津和野城に入城したともされています。
2014年、NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」では、俳優の関貴昭さんが、亀井茲矩を演じられました。
・玉造要害山城 (玉造城) 湯氏の本拠地
・宮部継潤とは~豊臣秀吉に仕えて出世した武勇ある浅井家の家臣
・吉川経家~自刃して果てる際の「首桶」を持参して鳥取城に籠城
・山中鹿之助 (山中鹿助、山中幸盛)~尼子家再興に忠義を尽くした名将
・月山富田城の解説【日本100名城】尼子経久・尼子晴久・尼子義久
・鈴垂城 (鈴垂山城) 亀井秀綱の居城
・山名豊国とは~没落し亡国の将となるも桃山文化を伝えた名門「山名氏」の生き残り
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