斎村政広の解説~赤松家の宿命に巻き込まれた悲運の将

捨丸先生シリーズ

斎村政広とは?

斎村政広(さいむら-まさひろ)は、永禄5年(1562年)に播磨龍野城主·赤松政秀と赤松晴政の娘の間に生まれました。

政広のいた赤松家は9代目当主赤松政則が急死し、子の村秀が4歳だったため、政則の婿養子にあたる赤松義村が家督を相続。10代目当主となり、赤松家宗家となります。しかし、嫡流は村秀からなる龍野赤松家であるため、度々内紛が起こっていました。


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村秀の子で政広の父にあたる政秀は、知勇兼備の武将だったため、対立していた赤松義祐(義村の孫)との戦いで優位に立ちました。しかし、元亀元年(1570)に浦上宗景の手によって毒殺。政広の兄にあたる広貞もそのすぐに亡くなりました。

父と兄の死によってわずか8歳ながら、政広は家督を継ぎました。この時の赤松家は広貞のころより、織田信長の家臣・荒木村重に人質を出して服属していました。そのため、天正3年(1575)に織田信長に謁見します。その際には先に降伏していた元赤松家家臣の小寺政職別所長治もいました。

斎村の由来

天正5年(1577)には、羽柴秀吉の播磨派遣に際し、龍野城を引き渡しました。政広は家臣の平井貞利の所領である平井郷佐江村に一時避難します。なお、苗字の斎村は佐江村が由来といわれています。後に龍野城返還を訴えますが、受理されずに龍野城は石川光元が城代として入りました。

同年に始まった中国攻めでは、織田方として参加。天正7年(1579)に毛利家との戦いでの功績を信長に称賛されました。天正8年(158)に秀吉が播磨を平定すると、政広は再度龍野城の返還を乞います。しかし、龍野城は蜂須賀正勝に与えられ、政広はわずかな領地を与えられた上に正勝の与力となりました。

以後は正勝のもとで、備中高松城の戦いや賤ヶ岳の戦い小牧・長久手の戦いと様々な戦に参加。基本的に先鋒を任され、小牧・長久平の戦い時に正勝不在の時は、全体の指揮を担いました。天正13年(1585)に四国攻めの際の論功行賞で、政広は竹田城の城主となり、秀吉の直臣となります。ちなみに龍野城は福島正則の手に渡りました。
また、天正15年(1587)には秀吉の親衛隊に当たる赤母衣衆の1人となります。続く小田原攻めでは、600騎を率いて出陣しました。

姜沆との出会い

文禄元年(1592)から始まった朝鮮出兵の際に、政広は人質として捕らえられた朝鮮の官人・姜沆(きょうこう)と親交を持ちました。姜沆の帰国を支援し、姜沆の著した『看羊録』には「政広だけが人間らしい心を持った将だ」と評価されています。
また、政広も姜沆に加藤清正藤堂高虎とは仲違いしていることを伝えていたので、2人とは不仲だったことがうかがえます。


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そして、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍に味方し田辺上の戦いに参加します。田辺城の戦いには勝利するも、関ヶ原本戦で西軍敗北を知ると、東軍に降伏。その後は東軍からの要請で鳥取城を攻めました。しかし、政広は城下町を焼討し、民家を放火していたので、これを徳川家康に咎められます。その罪は重く、切腹を命じられた政広は鳥取の真教寺で自害。政広亡き後の竹田城は山名豊国が城主となり、後に廃城となりました。

寄稿(拾丸)

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