黒田一成とは
黒田一成(くろだ かずしげ)は戦国時代の武将で、1571年、伊丹村(兵庫県)に加藤重徳の次男として生まれ、幼少のころは玉松と呼ばれた。
父・加藤重徳は、有岡城主・荒木村重の家臣で、母は不詳。
1578年、織田信長の家臣になっていた荒木村重が謀反を起こし、有岡城に籠城。
その際、豊臣秀吉の使者として、荒木村重に翻意を促すため、黒田官兵衛(黒田孝高、黒田如水)が有岡城を訪問したが、荒木村重は、黒田官兵衛を有岡城の土牢に投獄した。
ここで、黒田官兵衛は約10ヶ月間、不自由な身となったのだが、それでも生き長らえたのは、当時、牢の監視役だった、荒木村重家臣・加藤重徳(伊丹加藤又左衛門)のお蔭だと深く感謝していた。
加藤重徳も、黒田官兵衛の智才を慕うようになり、せめて生命だけは絶たれないようにと、できる限りのことをしたようで、商人に扮した黒田家家臣の栗山善助(栗山利安)らとの面会や差し入れも、発覚したら加藤重徳自身の首が飛ぶのも覚悟で、密かに黙認していたようだ。
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荒木村重は戦いが不利と見るや、妻子や多くの女房たちを残し、1579年、近臣の数名と密かに有岡城を脱出。
その後、織田軍が有岡城を攻めると、黒田家家臣の栗山善助、母里太兵衛、井上之房らに、黒田官兵衛は救出され、豊臣秀吉のもとで引き続き軍師として活躍した。
黒田官兵衛は、この時、9歳になっていた、加藤重徳の2男・三左衛門を養子に迎え、我が子同然に、黒田長政と兄弟の様に一緒に養育し、三左衛門は黒田一成と改名し、黒田家を支える勇猛果敢な武将へと成長して行くのだ。
1584年「根来衆、雑賀衆の一揆の戦い」が初陣。黒田一成が14歳のときで、黒田長政に従い、岸和田で奮戦した。
黒田一成は四国討伐など、幾度となく出陣し、1587年、豊臣秀吉の九州征伐のときには、薩摩と日向耳川の激戦(耳川の戦い)で先陣を務め、首2つを取り高名をあげた。
黒田官兵衛・黒田長政が、中津12万石となると、黒田一成は83石から4488石となった。
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第一次・城井谷の戦いを無理に敢行した黒田長政が総崩れとなり、家臣の大野小弁らが討死した際には、退却する黒田長政は深田に馬を入れてしまい、身動きできなくり、宇都宮勢に取り囲まれた。
そこへ、黒田一成が手勢を率いて救援に駆けつけ、黒田長政の影武者となって黒田長政の逃走を助ける事を志願し、その志を称された他、その後の「城井城の戦い」で宇都宮鎮房(城井鎮房)を討取る戦功を挙げ、藩内の誰もが引けなかった宇都宮鎮房(城井鎮房)の遺物の大弓を軽々と射るなど、数々の武功が残る。
1592年と1597年の朝鮮出兵のときも、黒田長政に従い、後藤又兵衛、母里太兵衛と共に日替わりで先鋒を務めるなど勇敢に戦い、金海城に一番乗り。
白川の籠城、普州の城攻め、西生浦の籠城でも活躍。明兵の矢を右肘に受けたのが唯一の傷だと言い「黒田藩に一成あり」といわれるようになったと言う。
豊臣秀吉の死後、1600年の関ヶ原の戦いでは、黒田長政が徳川家康に味方し、石田三成勢と激しく戦った際にも後藤又兵衛と共に先陣を務め、石田三成の家臣・蒲生将監を討ち取るなど徳川方の勝利に貢献した。
石田三成が、徳川家康の陣の前で待たされた際に、通りかかった黒田長政が馬から降りて、石田三成の汚れた服装の上に、着用していた羽織を脱いで着せたと言う逸話もある。
関ヶ原の戦いでの軍功で、黒田長政が筑前52万石を与えられると、黒田長政は黒田一成の偉功に対し、三奈木を中心とした下座郡(旧甘木市の一部)15000石(幕末には1万6205石)を知行させ、黒田家の家老に昇進した。三奈木に館を構えたため、三奈木黒田家と称される。
黒田一成の体格は大兵肥満、黒田長政より大きな銀箔押大水牛脇立兜をかぶり、馬印は白の御幣。大小の字を描いた陣羽織や前立を好んだと言う。
大阪夏の陣では黒田忠之に従って大坂城攻めに出陣。冬の陣でも黒田忠之に従って大坂に向かうが、途中で豊臣家滅亡の報を受けて帰国している。
そして、今までの武勇をもって、最も若くして黒田二十四騎の一人に加えられた。
黒田一成は、その二十四騎の中でも、七人の剛将の一人に選ばれるほどの実力だった。
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黒田騒動が起こると幕府に対して弁明も行っている。
1637年10月、天草四郎時貞を盟主として一揆を起こした島原の乱で、江戸幕府は板倉重昌を大将にして、黒田家を含む九州地方の諸大名を中心に3回の総攻撃を行った。
しかし、板倉重昌は戦死するなど、幕府軍は敗走。
ことの重大さに驚いた幕府は、松平信綱を急いで派遣し鎮圧に努めたが、膠着状態となった。
松平信綱は軍議を開き、各大名の意見を聞いた際、大名格で軍議に加わることを許されていた黒田一成は、これまでの度重なる戦いの体験を踏まえて「兵糧攻めが最善の策」と進言する。
松平信綱は、この策を取り入れる一方で、やぐらを組み、地下道を掘るとともに、海上から軍船の砲撃を行った。
天草四郎時貞ら領民たちは、原城で88日間籠城したが、ついに食料・弾薬とも尽き、1638年2月28日、幕府軍の総攻撃を受け、天草四郎時貞をはじめ約37000人の領民が戦死した。
子どもや女性、お年寄りもすべて殺され、戦いが終結されたのだ。
福岡藩黒田家は先陣に立ったが、藩士は藩主・黒田忠之の指揮に従わず、黒田一成に従ったとされる。黒田一成も家臣団を引き連れ壮烈な戦いを繰り広げ、この戦いで、家臣団から4人の戦死者を出した。
この戦いは、黒田一成にとって最後の戦であった。
1656年11月13日、黒田一成は86歳で死去。
法名:睡鴎斎休江宗印居士。
墓は福岡市博多区の崇福寺と朝倉市三奈木の清岩寺(清岩禅寺)にある。
黒田一成の家系は代々福岡藩の大老職を世襲する別格的存在となり、明治に至るまで黒田家の筆頭重臣家として存続し、明治時代に男爵となり華族に列した。
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黒田一成の正室は栗山利安の長女。1586年生まれとあるので、正しければ黒田一成より15歳年下となる。
黒田一成家臣団
粕屋茂平衛、近藤加衛門、関勘六、江見彦右衛門。
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