長尾政景の溺死事件
長尾政景(ながお-まさかげ)は、戦国時代の1526年に上田長尾家となる長尾房長の次男として生まれた。
仙桃院(せんとういん)は、仙洞院とも書くが、長尾為景の娘で、1524年ないし1528年生まれとされる。
父・長尾為景は越後長尾氏、すなわち越後守護代となる長尾家の本家筋で、仙桃院の実の弟に、長尾景虎(のちの上杉謙信)、兄には長尾晴景がいる。
上田長尾家の長尾房長と、本家・長尾為景は仲が悪かった。
坂戸城主・長尾房長は、関東管領・上杉顕定が越後侵攻を行うと、上杉顕定に味方して長尾為景を破っている。
しかし、1537年頃、長尾為景の娘・綾が、長尾房長の嫡子・長尾政景の正室として嫁ぎ、越後長尾家と上田長尾家は事実上和睦し関係を強化した。
そして、長尾政景と綾御前(仙桃院)は、2男2女を生んだ。
長男の長尾義景は10歳で早世したが、1555年に生まれた次男・長尾顕景は、のち上杉景勝と改名し戦国時代の上杉家を守り抜く。
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さて、春日山城の長尾本家では、1540年に長尾為景が隠居し、綾姫と長尾景虎の兄・長尾晴景が家督を継いでいた。
しかし、越後では国人の反乱が絶えず、長尾家の主君となる越後守護・上杉定実の伊達家から伊達時宗丸を養子に迎えて、強い後ろ盾を得ようとした。
これで増々越後の国内は乱れた、情勢が不穏となった。
そのため、次男であったが故に、仏門に入っていた弟・長尾景虎が還俗する。
栃尾城主となった長尾景虎は、たちまち反乱を鎮めて名声を高めた為、長尾家などでは長尾景虎を当主へと言う声が増えて行った。
そのため、1547年には長尾家の家中で長尾晴景と長尾景虎(上杉謙信)とが対立する構図となる。
この時、長尾房長と長尾政景(23歳)は、長尾晴景の妹・綾御前(仙桃院)を迎えていた事や、敵対していた古志長尾氏が長尾景虎側についたことなどから、長尾晴景に味方する。
しかし、1548年12月30日、守護・上杉定実の調停により、兄・長尾晴景は弟・長尾景虎を養子とした上で家督を譲って隠居することになり、長尾景虎が春日山城に入って、19歳で家督を相続した。
これに不満を抱いた父・長尾房長と長尾政景は、1550年に長尾景虎に対して謀反を起こすが、1551年、長尾景虎の反撃を受けて坂戸城が包囲されたため降伏した。
そして、1552年8月15日には、父・長尾房長が死去し、27歳の長尾政景が坂戸城主として跡を継いだ。
ちなみに、この長尾政景の重臣クラスまで出世していたと考えられるのが、樋口兼豊で、その子・樋口与六は、のち直江兼続と名を変えて、上杉景勝を支える事になる。
なお、隠居した本家の旧当主・長尾晴景は、1553年に死去している。享年42
その後、長尾政景は「上田衆」を率いて長尾景虎に忠誠を尽し、重臣として活躍し数々の武功を挙げた。
1556年、家督を捨てて出家しようとした長尾景虎の説得にも当たり、春日山に復帰させている。
また、1560年には、春日山城の留守居役を任されるなど、信頼も厚かった。
しかし、1564年に事件が起こる。
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1564年7月5日、坂戸城近くの野尻池(現在の銭淵公園内にある池、または湯沢町・大源太湖の2説あり)にて、長尾政景は溺死した。享年39。
酒に酔って船から投げ出されたともされるが、上杉謙信に謀反を起こそうとしたため「誰にも言えない相談がある」と、宇佐美定満(下平吉長とも)によって誘いだされ暗殺されたという説もあるが、真相は不明である。
なお、船に一緒に乗っていて溺死した家臣・国分彦五郎の母の後日談では、引き揚げられた長尾政景の遺骸の肩下に、傷跡があったともされる。
野尻池は、野尻城(琵琶島城)がある野尻湖(芙蓉湖)という説もあり、実際に長尾政景の墓が、野尻湖の湖畔に作られたと言う。
しかし、墓前でなぜか落馬する者が多い事から、のち野尻湖に近い真光寺に墓が移され現存している。
真光寺本堂の左手奥に見える墓地へ進むと、自然石でできた長尾政景の墓がある。
あとは、新潟県南魚沼市にある龍言寺跡に長尾政景公墓所(道宗塚)が存在する。
まだ10歳だった遺児・上杉景勝(長尾喜平次顕景)は、母・綾御前(仙桃院)の弟である上杉謙信の養子となって春日山城に入った。
そして、幼い樋口兼続(直江兼続)も小姓として上杉景勝に仕えるようになるのである。
そして、この2人は、上杉謙信の亡き後、御館の乱に勝利して、上杉家を継ぐことになる。
当主を失った上田長尾家は事実上消滅し、山内上杉家と統合される形となった。
綾御前(仙桃院)も、上杉謙信の誘いで春日山城に移り住んだ。
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ちなみに、仙桃院の長女は、上杉景虎の正室となり、次女は畠山義春の正室となっている。
畠山義春は、能登畠山家・第8代当主である畠山義続の次男で、1577年に七尾城が上杉輝虎(上杉謙信)に落とされると、上杉謙信の養子に出されていた。
仙桃院の長女・清円院が嫁いだ、上杉景虎は、1570年に北条家との越相同盟が成立した際に、北条氏康の子・北条三郎が春日山城に送られた人物で、上杉謙信の養子となり、名を上杉景虎と改めていた。
1571年には、清円院との間に、嫡男・道満丸が生れている。
1578年、御館の乱では、仙桃院の長女・清円院の夫である上杉景虎と、仙桃院の子・上杉景勝が家督を争う結果となったが、この時、仙桃院は御館に籠もり、上杉景虎についた。
ただし、戦後は勝利した上杉景勝の保護を受け、春日山城に入っている。
清円院は敗れて自害しようとした上杉景虎を御館より逃し、自身は降伏を拒んで御館にて自害したととされている。
ただし、諸系図によると上杉景虎とともに逃げたようで、鮫ヶ尾城で死を選んだ可能性が高い。
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仙桃院(仙洞院)は、その後の会津・米沢への移封にも同行し、1609年2月15日に死去した。
墓所は米沢市の林泉寺。
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