上杉謙信~軍神の実像~【戦国人物伝10】

上杉謙信

戦国史好きなら誰もが知っている武将といえばあなたは誰を思い浮かべますか?
数多くの戦国武将たちの中でも上位に入ってくるのが越後の戦国大名上杉謙信ではないでしょうか。
なぜ人気があるのかというと、武田信玄との川中島の戦いが有名だからだと思います。

ですが人気先行できちんとした人物像がどれだけ知られているでしょうか。
例えば、有名な川中島の戦いは第4次であり合計5回行われたことをご存知ですか?
この記事を読んでくださっている方は、歴史に興味がある歴史好きな方たちだと思います。

歴史とはその時代に生きた人々の記録であって、過去の人物たちがいかにして知恵を絞りだしたかを考えていく必要があるのです。


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話がそれてしまいました。
上杉謙信について見ていくことにします。
享禄3年(1530年)に上杉謙信は越後国の守護代、長尾為景の末子として生まれています。母は虎御前と呼ばれている女性です。
幼名を虎千代と付けられています。これは寅年生まれだからということだそうです。

当時の越後国内の状況を見てみましょう。
1530年代の状況は、上杉定実を傀儡として為景が越後全域に勢威を示していました。
しかし晩年には翳りが見え始め、上郡だけにまで勢力は後退しています。
なぜなのでしょう?というより、越後には長尾氏が多数盤踞しています。それは主家である上杉氏に従って越後へと関東から移ってきたからです。
分家が多数生まれて、その中で謙信の生まれた長尾氏が台頭してきた感じですね。

下克上の波が越後にも忍び寄っていて、結局父である為景の代では勢力を最終的に後退させてしまいました。
各長尾氏も為景に従うということはありません。
長尾氏の有力な家は以下の通りです。
・上田長尾氏
・古志長尾氏
・三条(府内)長尾氏
為景の家は三条長尾氏で、守護代職を独占状態にしていました。

強力な力で統一しなければ、とても収められない状況だったのです。
長尾氏の他にも国人衆が独立独歩で割拠しているので、油断できません。
戦国時代後進地だった北陸、関東は特に離合集散が激しかったのです。

守護にはもう力はなく、あとは実力でまとめあげていくしかありませんでした。
ところで三条長尾氏の居城、春日山城の位置が越後の南に偏りすぎていると思いませんか?
これでは北部の国人衆は反乱しようと考えたなら、徒労を組んで反乱を起こします。
本来なら越後中央部へ居城を築くべきなのですが、絶対的な勢力を持っているわけではないのでかなわないことです。
そして古志長尾氏の方が中央部を抑えています。この勢力図を見る限り、古志長尾氏の方が有利な気もするのですがそうそう現実は甘くはありません。

守護館が近かったからこそ、三条長尾氏は勢力を拡大していけたのであって仮に中央部に居城を作っていたらこうは行かなかったでしょう。

各個がバラバラな状況の中で為景は亡くなります。天文11年(1542)のことです。
この前に家督は嫡男の晴景に譲られていました。しかしです。父親に似ず、病弱であり気迫に欠けている人物でした。
謙信は7歳の時に春日山城下の林泉寺に入っており、修行の日々を送っていたのです。
兄晴景には勢力を広げるとかそういう能力もなく、平時だったら無難に立ち回っていけたであろうと思います。
時代はそのような人物を求めていません。武将としての器量がないと分かれば、平気で反抗してきます。
ここで謙信が登場してくるのです。兄を助けるため、戦の渦中に身を預けていくのでした。

ここからはポイントを3つ挙げて紹介していきます。

上杉謙信の銅像

細かい部分も少し挙げますのでお楽しみに。

家督相続

謙信にとって初陣となっていく戦は、三条城への入城から始まります。
天文12年(1543)のことです。周りは敵だらけで、守護代家に従う三条城代・山吉行盛、栃尾城代・本庄実乃、母の実家・栖吉長尾氏が謙信と行動をともにしていたのです。
ここで疑問に思うのは、今まで林泉寺で修行していた謙信をなぜ急に戦に駆り出したのでしょう?
仮にですが、ここで謙信が敗れてしまったなら守護代長尾氏は滅んでいたのではと思います。

晴景にはもう手が残されていなかったのかもしれません。自分の代になって離反が相次いで、自信を失っていた可能性もあります。
のちに晴景は謙信を討とうとします。自分亡き後は謙信が守護代を継ぐ。
だったら謙信を道連れにと考えた可能性もなくはないと思われるのです。
残念ながら守護代家を背負っていくだけの力もなく、自分の地位だけにこだわってしまう人物だったようです。
そんな兄晴景の想いを知ってか知らずか、謙信は戦に望んでいくのでした。

三条城に入城した謙信、その後栃尾城へと移ります。
雪解けが進んでくると、近隣の土豪が謙信へ攻撃を仕掛けてきました。
これをなんとか撃退し、初陣を飾るのです。ここから49歳で亡くなるまでの戦人生がスタートします。

その後も謙信は勝利を重ねていきます。そうなってくると面白く思わないのが晴景です。
謙信の名声が高まっていけば、当然自分の立場は危うくなる。
現に守護代として謙信を立てようとする動きも見られています。
晴景も不運としか言いようがありませんよね、守護代家に生まれていなければ良かったのに。

守護代を晴景任せておけるほど、越後は余裕がありません。守護上杉氏には越後をまとめる力はないのです。
誰かがまとめなければならないとしたら、守護代家長尾氏が有力な候補に挙がります。
父為景は一時越後統一をしそうな勢いを示しています。

流れが最早晴景にはありませんでした。謙信を討とうとする動きを見せるのも謙信の名声が高まったからこそです。
この動きに動揺したのは、越後守護上杉定実でした。守護代家に内紛を起こされては困ります。
今や守護は飾りの存在であり、守護代家の傀儡となっていました。だからこそ、守護代家が乱れたなら自分の立場も吹き飛んでしまいます。
この内紛は、二派に分かれています。
・晴景派 上田長尾政景・黒川清実など
・謙信派 高梨政頼中条藤資・栖吉長尾景信など
同族が入り乱れての内紛です。

この内紛、守護上杉定実の懸命な斡旋により晴景は和平案をのんで謙信は守護代として春日山城へと入ります。
こうして晴れて謙信は越後守護代となるのです。
しかし、この守護代就任を謙信は望んでいたのでしょうか?


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本来林泉寺で修行の日々を送っていたのですから、望んではいなかった可能性が高いのではと思います。
守護代になるということは、兄の晴景を退けてしまうことになるからです。
三条長尾氏に付いている国人衆からすれば、頼りになる棟梁が欲しい。
この謙信の守護代就任には、国人たちの希望に添ったものだと思えてくるのです。
上杉謙信という人物を客観的に見て、それほど欲もない印象を受けます。
後々出家騒動を起こすのですが、そこからも別に権力を求めていたわけではなく、国人衆に必要とされたからこそ先頭に立って戦っていたのではないでしょうか。

歴史上の人物も、過去に生きていた人間です。
この上杉謙信という人物が戦国武将として有名だからこそ注目されているだけで、今を生きる現代人と生きていたという事実は変わりません。
人には生まれ持った性格というものがあります。
謙信の行動は、必要になれば謀略も仕掛けますが、武田信玄のように多様していたわけではありません。
この性格的な部分が人を惹きつけ、越後の戦国大名として成長できた理由の一つだと筆者は考えています。

謙信が越後守護代に就任したからといって、越後の情勢は好転はしていません。
国人衆は変わらず自己の利益を求めて蠢動していましたし、お飾りとは言え守護上杉氏がいます。
戦国時代の守護代は立場的には実力社長クラスですが、その立場は一瞬で崩れてしまいかねない危険なものです。

国人衆だけではなく、一族間にも対立があります。
その最右翼なのが上田長尾氏の長尾政景でした。政景は晴景を支持していたことからも分かるように、謙信を認めていません。
自身の勢力の後退もあって、勢力挽回を図っている状況です。反乱を企てていると知らせも入っています。
そして謙信にとって何より辛い状況だったと思われます。何故なら長尾政景には謙信の姉仙桃院が嫁いでいたからです。
姉の嫁ぎ先を攻めるのは、心苦しいでしょう。

戦国時代には政略結婚は当たり前でした。だからと言って肉親の苦しむ姿を喜ぶことはありませんよね?
悩んだ末の決断で嫁ぎ先を滅ぼす事もあります。そうしなければ自分が滅ぼされてしまうかもしれません。
謙信は外交的に政景を抑えます。天文17年(1549)に守護代となって翌年の天文18年(1550)のことです。
その後も反抗する気を見せる政景に、恫喝の意味を込めて出兵をしていきます。
和平を申し込まれていましたが、簡単に受け入れてはまたいつ反乱するかわかったものではありません。

ようやく受け入れたのは天文20年になってからです。
ここでとりあえず一族間の対立は鉾を収めます。

武田信玄との対立

上杉謙信といえば、誰もがライバルに武田信玄を挙げるでしょう。
隣国(越後と信濃)ということもあって、争うのは必然と思われるでしょうが少し考えてみましょう。
ライバルである武田信玄には明確な目的がありました。
甲斐という領国では、武田氏を保てない。だからこそ信濃を版図に加えて、国力を増やしていく。
後には日本海ルートでの上洛を考えていたと思われます。

対して謙信はどうでしょうか?
越後はまだ収まっているとは到底言えず、信濃の村上義清が救援を要請してきているという状況です。
救援といっても隣国での話です。しかし、もしこの救援を断り信濃全土が信玄の手中となった場合領土が近接します。
次に狙ってくるのは越後です。救援に応じるというより、切羽詰まった理由が存在します。

両者の対立は避けがたいものだったと思われます。
しかしです。天文22年(1553)~永禄7年(1564)まで計五回も合戦が行われています。
有名な合戦は第四次川中島の合戦になります。
両者にとって、この12年は余りにも高い代償でした。
どこかで手打ちにしておけば、その後の両者の人生も変わっていたでしょう。


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引くに引けない状況だというのは領国が隣接しているので分かります。
それでもこれだけ合戦をして、決着がつかなかったという事実が不毛の合戦だったと言えるでしょう。
この後の歴史を知っているものとして、この不毛な合戦は時間の浪費だったと思います。

謙信は何を考えて行動していたのでしょう?
その生涯を見るにつれて、己の損得では生きていなかったはずです。
己の損得を考えるなら、関東管領にはならなかったでしょう。

ここで関東管領について少し見ていきます。
関東管領は、足利幕府鎌倉府の執事としてその職制をスタートさせています。
初めは鎌倉公方ではなく関東管領と呼ばれていた鎌倉府の主、足利氏が将軍と同義語の公方に昇格し、同時に執事が管領に昇格したものです。
関東管領職は、上杉氏の独占する職制で代々上杉氏が任じられてきました。

謙信はなぜ関東管領となったのか?
それは関東管領上杉憲政の養子になったためです。
しかし。そこにどのようなメリットがあったのかと言われれば、首を傾げざるを得ません。

唯一考えられるのは、関東・東北ではまだ中世の権威が色濃く残っており家臣統制に苦慮する謙信にとって、権威を得られたということぐらいです。
名族上杉氏の家督と、権威としての関東管領。この二つが越後国内の統制に大きく影響力を発揮します。
代償も大きく、関東管領に就任したからには関東を制圧しなくてはなりません。

信玄との合戦を繰り返しつつ、関東へも出陣していくのです。
はっきり言ってしまえば、損得勘定なんて考えてもいない行動です。
関東は北条氏の支配が行き届いており、いくら一時的に勝てたとしてもすぐに元の姿へ戻っていくのが目に見えています。

その生き方はライバルと言われる武田信玄とは真逆です。
だからこそこの二人の合戦は人気があるのかもしれません。

義に生きた生涯

上杉謙信という人物の生涯を見てきましたが、全体を通じて義によって行動しているというのが一番当てはまっているように思います。
義とは何か?道理に叶う行動、人としての行動規範とでも言いましょうか。
儒教的な行動規範であり、一般的に正しいと考えられる行動を指しています。

しかし、戦国の世にそのような行動規範が通用するのでしょうか?
謙信自身忍びを使っていましたし、忍びのイメージは諜報活動・攪乱・暗殺など多岐に渡ります。
そのような忍びを使っていたとしても、義将のイメージは謙信にのみ当てはまる気がします。
清々しいほどに戦国の世を、困っている武将たちを助けて歩く。

生き方なのでしょう。
戦国の世であっても、人としての生き方を貫いた謙信は存在感がありますね。


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さて、謙信は生涯女性と関わりを持ちませんでした。
故に謙信死後に、御舘の乱が起きます。後継者として、あの長尾政景の息子景勝と、北条氏康の子景虎。
どちらにしてもあまり望まれない養子のように思いますが、そこは置いといて。

生涯女性と関わらなかったのですから、この後継者争いは当然にして起こります。
謙信自身は義を貫いた生涯だったので、満足のいく人生だったでしょう。

お読みいただきありがとうございました。

参考文献

上杉謙信の全て 花ヶ前 盛明
歴史群像シリーズ 8 16

(寄稿:優秀者称号官位・従六位下)和泉守@nao

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コメント

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  1. 戦人

    謙信と信玄。いまなお龍虎と称される二人がもし、友好的な関係を許されたとしたら。北条を防護壁として東からの侵入を防ぎ、両軍がほぼ同時に西上作戦を開始できたとしたら。おそらく信長が戦国の世に覇を唱えることは難しかったでしょう。北陸は手取川、東海道(当時はありませんが)は三方ヶ原から、一気に京に進軍。両名が決戦の日を迎えるのはそのあとからでも遅くなかった気がします。川中島の合戦は有名ですが、地理的には越後と信濃の局地戦。京の覇権をめぐって両名が争うようなことになれば、これはもう川中島どころか関ヶ原にも劣らない、まさに天下分け目の大合戦になっていたのではないでしょうか。