上杉景勝~偉大な先代の影~ 【戦国人物伝11】

上杉景勝

上杉謙信という戦国ら時代を代表する偉大な人物が先代だったら、2代目は相当辛い立場に立たされるでしょう。ただでさえ2代目という立ち位置は、先代から仕える家臣に先代と比べられがちです。

先代の功績が偉大であればあるほど行動は縛り付けられ、思うように動けません。
ではどうしていけばいいのか?
2代目が進めるべき道は2つあると考えられます。

⓵先代から仕える家臣を一新し、自分のやりやすい環境を整える
⓶先代のやってきた事績を継承して、そのまま真似る

⓵を行うことには困難が伴います。まず家臣たちが敵対する、それは自分たちの既得権益が侵されるからです。これはどの時代であっても同じことです。
自分たちに不利なことには、それがどんなに状況を悪化させても受け入れるまでには時間がかかります。

⓶は、無用な摩擦を生みません。先代と同じように振舞えば、誰もが以前と同じように権益・立場が確保されるからです。
しかし、これには時代の変化に着いていけなかったり2代目本人の忍耐が必要となってきます。

今回の主人公、上杉景勝は⓶を選択した2代目です。
自分が望むわけでもなく、致し方ない状況によって⓶を選択しています。


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まず生い立ちから見ていきましょう。
上杉景勝は父長尾政景と母仙桃院の間に生まれました。
父が長尾政景ということからして、かなり不利な条件です。

長尾政景は先代上杉謙信に反目していた武将です。一族としては同族ですが、謙信の座を虎視眈々と狙っていました。その息子として景勝は生まれているのです。
ではなぜ謙信の養子となったのでしょう?
反目していた武将の子です。養子とすれば当然家督相続の候補になってきますし、家臣たちも納得しないはずです。

ここにもう一人、謙信の養子となった人物がいます。
名前は上杉景虎、北条氏康の8男です。景勝の妹を妻にしています。
この状況だと嫌でもお家騒動が起きます。

家臣たちにとっては、どちらも選択しずらい後継候補です。
謙信が後継者を定めておいてくれれば、争いは多少防げたと考えられます。
しかし謙信は後継者を定めることなく突然この世を去ってしまうのです。

先手必勝とばかりに景勝は動いていきます。
景勝にはあって、景虎には無かったものがあります。
さて、それは一体何なのでしょう?

それは参謀というべき存在です。歴史上に名を残した人物ですが、大河ドラマの主人公にもなっていますので知っている人も多いでしょう。
直江兼続、景勝と兼続は二人で謙信の役割を果たしていたのだと考えられます。
それでは景勝の半生を見ていくことにしましょう。

景勝と景虎

上記で二人の出自を見てきましたが、ここでは謙信の後継者としてどのように処遇されていたのかを見ていきます。
まずは景勝から見ていきましょう。

上杉景勝として謙信の後継者として遇され始めたのは、天正3年ごろからです。
それまでは他の人質と変わらない処遇を受けており、出自を考えたなら致し方ないものでした。
上杉弾正少弼景勝と名乗るようになります。
正式に養子として認められたことで、春日山城の中で新たに居住用の地が与えられて館を築きます。このことから、館が建てられた城の位置から御中城と家臣から呼ばれるようになりました。

軍役も定められて、後継者争いに一歩リードします。

もう一方の上杉景虎はどうでしょうか?
彼は上杉三郎景虎と名乗っています。官位得ていません。
景勝の妹を妻として、道満丸という嫡子が生まれています。
景虎もまた春日山城の中に居住用の地を与えられて、館を築いています。
軍役は定められていませんでした。

ここが意見の分かれるところで、軍役は家臣に対して定められるものだという意見があります。実際はどうなのでしょう?
確かに軍役は各々定められていますが、景虎は単純に人質としての扱いだった可能性が高いです。謙信が景虎の才能を買っていたとも言われていますが、家臣たちがそれで納得するとは考えられません。

もし景虎を後継者として定めたなら、北条家との同盟というよりは吸収合併とでも言える状況になります。これは考慮するに値しないでしょう。

謙信がどちらを後継者にすると指名しなかった理由は、今まで話してきた通りどちらも選びにくい条件を兼ね備えていたからに違いありません。このままでは上杉家は真っ二つに分かれてしまう状況ですが、謙信は後継者を定めないまま亡くなってしまいます。

後継者の決定は現代の会社でもそうですが、自分のいなくなった後どのような形で継続させてくれるのかというところにまで見なくてはなりません。
この景勝と景虎の二人に残された道は、平和に話し合って選ぶという状況にはなかったのです。

謙信だからこそ家臣たちは従ってきたのに、中心を失った上杉家はこのままでは崩壊の道を進むだけです。先に動いたのは景勝でした。
景勝には優秀な参謀である直江兼続が付いていたからです。

御館の乱、秀吉への接近

本来であれば起きてはならない戦、御館の乱は典型的なお家騒動でした。
謙信は死の直前に遺言を遺し、景勝を後継にと伝えてきたという風にして景勝は春日山城本丸を占拠しています。
謙信の危篤時に傍で臨終を看取っていたのは、直江信綱という重臣の妻船でした。

直江氏は府内長尾氏以来の家臣であり、執事職として謙信と接してきています。
その直江氏のバックアップを受けて、景勝は謙信の後継者として名乗りを挙げます。

一方動きを先制され、銃撃されて春日山城から追われた景虎は府内の御館にいる上杉憲政の元へ向かいました。
なぜ憲政の元へ行ったのでしょう?景虎は北条氏康の8男です。
実家への支援を要請すればいい問題ではないでしょうか?

ここが面白いところなのです。謙信は生前に後継者は決めていませんでした。
しかし二人の候補に対して明確な役割を与えようとしていたのです。
景勝は府内長尾氏を継ぐ方向で、景虎は関東管領上杉氏を継ぐ方向で考えていたと思われます。

理由としては景勝が明確に養子だったとは確認できないのが第一です。天正3年に景勝は名乗りを長尾喜平次顕景から景勝に改めていますが、上杉性ではなく、長尾性のままだったのではないかという疑いがあります。
景勝が養子として入ったのは府内長尾氏であり、上杉氏の名跡は景虎が継ぐ。
守護として上杉景虎が君臨し、守護代として長尾景勝という体制を考えていたのではないでしょうか。

だからこそ景虎は憲政の元へ向かったのであり、周りもそれを分かっていたのでしょう。このことは何を意味するのか?
景勝のクーデターだったということです。お家騒動どころではなく、守護上杉氏の家督を求めた景勝のクーデター。乱勃発の初期段階で景勝側の味方が少なかったのにはこういった理由があるからでしょう。


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主家に対して牙をむく、やはり長尾政景の子だと思われたのではないでしょうか。
景虎が上杉氏を継ぐことは、こうなってくると家臣たちには知られていたことなのです。ここから泥沼の内乱状態となっていきます。

御館の乱、秀吉の接近

ここで一先ず越後以外の情勢を見てみることにしましょう。本来であれば内乱などしている場合ではなく、国内を統一するべき事態になっています。
天正5年の手取川の合戦で織田軍を破った謙信でしたが、織田信長も勢力を盛り返して武田氏領国へ侵攻しようという緊迫したものになっていました。

ここで越後に戻ります。景勝にとって、このような事態は百も承知だったでしょう。むしろ早く国内を統一して、信長に備える必要性は感じていたと考えられます。しかしこれは景勝の独りよがりな考えであって、本来であれば景虎を主君に仰いで守護代長尾景勝として防衛していなければならなかったのです。景虎が上杉氏を継ぐという事実を受け入れられずに内乱を起こしました。

一年余りの御館の乱を経て、景勝は景虎を自害に追い込んで上杉氏を継ぎます。払った犠牲は多大なもので、勝つために武田勝頼を自陣営に引っ張り込みます。勝頼を自陣営に?親の代で幾度となく戦った相手です。その相手にまで触手を伸ばしたことからも必死さが伺えます。

そもそも勝頼はどのような条件で景勝陣営に加わったのでしょう?
まずは分国の中から東上野を提供、黄金も提供という条件でした。領土を提供してもらえるなら、劣勢の勝頼にとって大きなプラスです。ですが勝頼側からみて、果たして本当に領地を提供してくれるか?領土とは武士が何より大事にしてきた土地であり、「一生懸命」の語源である「一所懸命」が表すように土地は何よりも大事。タダも同然で領地を提供するとは、その土地に住む在地領主をも裏切ることになります。

騙すか騙されるか、戦国乱世では駆け引きは日常茶飯事です。勝頼にとって今何より欲しいのは軍資金、父の信玄の代とは情勢が変わっています。領地を守らねばならず、産出される甲州金でもまだ足りない、そこへ黄金とともに領地まで提供してくれるという美味しい話が舞い込んだのです。
人は極度に困ると、周りが見えなくなり判断能力も低下します。景勝陣営は上手くそこを突いたのです。

勝頼は北条と同盟を結んでいました。それが景勝と結んだがために破綻します。
景勝への協力は勝頼にとって何も利はなく、害しかありませんでした。こののち北条からも信長からも攻められて武田氏は滅亡します。

さて、上杉氏の内乱を再び見ていきましょう。外交面でも国内情勢でも少しづつ好転させて、北条が援軍に来れない雪深い季節を狙い景虎へ総攻撃を仕掛けます。お館に拠っていた景虎と上杉憲政はここで死にます。憲政は和睦の交渉に向かう際に斬られ、景虎も自刃して果てました。

こののちも景勝に反旗を掲げる本庄秀綱、神余親綱、古志長尾氏の残党を討って国内統一を成し遂げます。天正8年のことです。
この国内統一を成し遂げた越後ですが、信長の攻勢が大きくなってきていました。

また、翌天正9年には越後揚北衆で反景勝の不満が暴発し新発田重家の謀反が起きます。新発田重家は信長と繋がっており信長軍も連携して越後を攻めてきました。正に四面楚歌の状況に陥っていたのです。
天正10年には武田氏も滅ぼされて、もはや越後は風前の灯でした。

しかしここで奇跡が起きます。同年に本能寺の変が起きて、信長が討たれてしまったためです。もし信長が死んでいなかったら、上杉氏は確実に滅ぼされていたでしょう。現に武田氏は滅ぼされています。

天下の情勢はどうなっていくか分からない不透明な状況の中、景勝はまず国内の安定を考えていかなければなりません。そうした中で羽柴秀吉急速に信長亡き後勢力を拡大させていました。
信長を殺した明智光秀を討ち、織田氏家中において発言力を増しています。

景勝にとって選択する時がやってきました。秀吉と柴田勝家から同盟の申し入れが来ていたのです。秀吉には後れをとってしまいましたが、織田氏の筆頭家老である勝家。無視できる存在ではありません。何より勝家とは領地が近接しています。
景勝の出した結論は、秀吉と結ぶというものでした。

歴史に「もし」という言葉は禁句ですが、景勝が勝家と結んでいたならどうなっていたのでしょう?勝家は生き残って、徳川家康と連携して秀吉といい勝負をしていたかもしれません。


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話を戻しますが、ここから越後上杉氏は秀吉の天下に組み込まれていきます。

関ヶ原での動き

景勝自身が関ヶ原の戦いに参戦していたわけではありませんが、きっかけとなったのは上杉征伐が実施されたからです。経緯を見ていきましょう。
秀吉が1598年(慶長3年)に亡くなります。豊臣秀吉となって、天下を治めていましたが急造の政権でありしっかりと体制が固まってはいませんでした。

2度の外征によって、国内には厭戦気分が蔓延していました。そうした中での秀吉の死は、次の天下人を求めていくことになります。最右翼は徳川家康です。家康は経歴を見ても、匹敵する人物はこの時点でいません。動くのは当然ということでしょう。政権内は大名の集合体であり、家康はこれまでに培った経験を糧にして行動します。

今一人前田利家が政権内で重く持ち入られていましたが、家康とは比べ物になりません。信長の武将として、勝家の与力として戦ってきたという戦歴。秀吉と友好があったというだけの存在です。言葉が悪くなってしまいましたが、利家という人物は後の加賀100万石の祖であり、悪く言うつもりもないのですが評価するなら反家康の求心力になったということだけでしょうか。

家康に対抗できる人物はいなかったということが、豊臣政権にとって不幸な事態でした。目を景勝に向けてみます。景勝は謙信を真似ることで上杉氏の当主として君臨していました。景勝から見て、この豊臣政権末期の状態は誰のせいでバランスを失っているのか?という風に考えていたと思います。

そして景勝は立ち上がり、家康が上杉征伐のために軍を率いて会津へ向かっているときに石田三成は挙兵。関ヶ原へと至るのです。
関ヶ原の戦い後、上杉氏は減俸にはなりましたが家は存続しました。


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戦国時代から現代に至るまで家名を遺しているのです。景勝自身は謙信と比べても、武将として優れていたとは言えません。しかし、一時は滅亡の危機にあった上杉氏を何とか乗り切らせたという部分は評価できるでしょう。

参考文献

上杉武将列伝 近衛龍春著
直江兼続 相川 司著

(寄稿:優秀者称号官位・従六位下)和泉守@nao

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