愛姫 (田村御前、陽徳院)~伊達政宗の正室

愛姫

愛姫とは

戦国時代の1568年に誕生した愛姫(めごひめ)の父は、三春城主・田村清顕で、母は相馬顕胤(小高城主)の娘・於北。
田村隆顕の正室は伊達稙宗の側室(下館氏の娘)が生んだ女子で、相馬顕胤の正室は伊達稙宗の正室(蘆名盛高の娘)が生んだ長女・屋形御前。
「めご」とは東北の方言で、可愛いらしい様を示す「めごい、めんこい」から来ている。

田村氏は坂上田村麻呂の子孫を称し、現在の福島県田村郡三春町周辺を支配していた。
下記は、三春城。

三春城

小勢ながら代々政略・軍略に優れた領主が多く、大国の脅威に対して結んでは離れを繰り返しながら着実に勢力拡大を続け、ついに戦国大名化するに至った屈強な勢力だ。


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愛姫の祖父・田村隆顕の時に勃発した天文の乱では、舅の伊達稙宗派に組して、伊達晴宗派に転じた蘆名盛氏と対立。
この先、相馬顕胤の娘・於北を嫡男・田村清顕の嫁に貰い受けていた。
乱の終結後も蘆名氏の侵攻を許さなかったが、また常陸の佐竹死が奥羽介入を企むと、一転して蘆名氏と共闘して追い払った。

その後は再び干戈を交えた田村氏と蘆名氏であったが、今度は蘆名氏が佐竹氏と結んで、周囲の国人領主を支配したため田村氏は窮地に陥った。
田村家の家督を継いだ田村清顕は、縦横無尽に兵を繰り出し、包囲網を次々と打ち破ったが、蘆名領との間に位置する畠山義国を味方につけた際、わずかに失策を犯してしまう。
畠山義国が伊達勢の八丁目城を調略したため、それまで友好関係にあった伊達輝宗が蘆名勢に味方して参戦したのだ。
蘆名盛興に協力した伊達実元が八丁目城を奪還し、両軍は畠山領の二本松城まで攻め寄せた。

田村清顕は、すかさず伊達輝宗へ和睦を申し入れるが、断られている。
その後、畠山義国の隠居などを条件にようやく停戦し、畠山の家督を畠山義継が継ぐと、田村清顕は連合の脅威を排するためにも伊達家と確実に同盟することを思案した。
また、伊達輝宗も田村家の一人娘・愛姫を迎えることで、兄弟姉妹が治める周辺諸国の安泰を図り、また愛姫の母が相馬の出であることから相馬対策にも利用できると判断し、ここに互いの利害が一致。


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田村清顕には愛姫以外に子供がいなかったが、こうして、1579年、愛姫(12歳)を、伊達政宗(13歳)の正室に送った。
この時、いずれ産まれるであろう次男に田村家を継がせる約定も交わされ、愛姫は伊達政宗へ輿入れし、田村隆顕は伊達の後ろ盾を得ることで独立を保持した。
伊達輝宗は相馬盛胤相馬義胤父子の戦上手さに苦戦していたが、愛姫を嫡男・伊達政宗の正室に迎えて、相馬家家臣の切り崩しを図っている。

伊達政宗は政略結婚だった事からか、愛姫を田村家からのスパイだと考えたとする説もあるなど、結婚当初の仲は良くなかったと言われ、実際、しばらく子も生まれていない。
田村家より随行した侍女たちによる囲い込みもあって、しばらく伊達政宗と距離を置く日々が続いたようだ。
なお、この頃から近侍として片倉喜多が付けられている。

1586年、後継不在のまま田村清顕が病没。


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すると田村家中は「伊達政宗を頼りとせよ」との遺言に従う伊達派と、愛姫の母の実家を頼る相馬派に別れて対立。
相馬派の陰謀がさらなる不和を生み出した結果、伊達家に出仕する田村の侍女が全員誅殺されてしまう事件も起こったようだ。
※一説には侍女が伊達政宗を毒殺しようとしたとも伝えられている。
殺害された侍女には愛姫の乳母も含まれている。

この田村家の混乱を狙った相馬義胤は、三春城への入城を企図したが、城方の伊達派に鉄砲を撃ちかけられ撤退。
やがてこの騒動は佐竹・蘆名の参戦によって大規模な合戦へと発展し、伊達政宗も戦う事になった(郡山合戦)。
これをしのいだ伊達政宗は裁定を下して、田村清顕の甥・田村宗顕を、田村家の当主と認定し、伊達政宗は「宗」の字を与えて田村宗顕と名乗らせ、田村家中の騒動は収まった。

1590年、伊達政宗は奥州の覇者となるのもつかの間、豊臣秀吉に臣従し奥州仕置きとなると、愛姫の実家筋にあたる田村宗顕は、豊臣秀吉に独立大名と見なされて改易されてしまった。
田村宗顕は伊達家の家臣だと自認しており、勝手に軍を小田原攻めに送る事をしなかったと言う事情もあった。
その後、田村清顕の遺言を盾にした伊達政宗が、三春の領有を認められたと知った田村宗顕は、豊臣秀吉に献上する進物も、伊達政宗によって握りつぶされていたこともあり、田村家乗っ取りの謀略だと判断。田村宗顕は激怒して、名を牛縊定顕と改め、伊具郡金津にて隠棲した。

その後、伊達政宗は、豊臣秀吉への人質として京都聚楽第の伊達屋敷に愛姫を住まわせたが、野望を捨てきれない伊達政宗は豊臣に逆らうか否かを日々悩んでいたと言う。
天下人・豊臣秀吉を相手に命懸けの芝居で立ち回る伊達政宗を、愛姫はやがて深く理解するようになった。
奥羽で大崎・葛西一揆が発生すると京の情勢をすぐさま知らせ、愛姫は「貴方には天下の大義に従って、思うままに生きてほしいと思っています。そのときには、私のことは考えないでください。もしも何かおきたときは、いつでも自害できるように短刀を持っていますから」と伊達政宗に書状を送っている。

のち、愛姫へ対面した伊達政宗は、三間も下がって平伏し「さすがは田村将軍のお血筋よ」と称えたとも伝わる。

朝鮮出兵の頃から、伊達政宗と愛姫の関係は改善したようで、着物の数が少ないと聞いた伊達政宗は、京の愛姫の侍女に「2枚でも3枚でも送る」とした書状も見える。

1594年6月16日、愛姫は京都の聚楽第屋敷にて長女・五郎八姫(いろはひめ)を出産。男子名である五郎八しか考えていなかった伊達政宗が、そのまま五郎八姫と命名したといわれている。
愛姫も一時期、キリシタンになったと言われる。
1595年、豊臣秀次事件により聚楽第が破却されると、愛姫は伏見の伊達屋敷に移った。
時期は不明だが、長年側仕えを勤めた片倉喜多が、伊達政宗の勘気を被り、国許へ蟄居を命じられている。
1599年12月8日、愛姫は虎菊丸(伊達忠宗)を出産。伊達忠宗は、伊達政宗から見れば2男であったが、正室が生んだ最初の男子だったので、のち仙台藩第2代藩主となる。
1603年、愛姫と五郎八姫は伏見から江戸屋敷に移り、五郎八姫は徳川家康の六男・松平忠輝(越後高田藩初代藩主)と婚約。
1606年12月25日、五郎八姫が松平忠輝と結婚。
1607年、虎菊丸(伊達忠宗)と、徳川家康の娘・市姫とが婚約。
1609年、愛姫は竹松丸を出産したが、42歳の高齢出産もあってか、竹松丸は7歳で夭折している。

1610年、片倉喜多が隠棲の地・白石にて死去。愛姫の口利きで、その遺領を牛縊定顕の子が継ぐことになり、片倉定広を名乗っている。


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1614年、松平忠輝の居城・高田城を築城するために総奉行として伊達政宗が越後へ出向。
その際、伊達政宗は詩30首、和歌300首をまとめた随筆草紙を愛姫に贈っている(伊達の松陰)

1616年、松平忠輝が改易され、五郎八姫は離縁となる。以後、一時、江戸屋敷に五郎八姫を引き取り、のち仙台城の本丸西館で暮らしたが、再婚はすべて断ったと言う。

1619年、愛姫の母・於北が仙台にて死去。

1636年5月23日、伊達政宗の臨終が近くなり、妻の愛姫や娘の五郎八姫が面会を願い出たが、伊達政宗は見苦しいところを見せたくないと断り、遺言と形見の品を贈った。
そして5月24日の早朝6時、伊達政宗は江戸桜田邸にてその生涯を全う。享年70(満68歳没)

江戸藩邸から仙台に移った愛姫は、瑞巌寺の雲居禅師の元で仏門に入り、陽徳院と称した。

1653年1月24日、愛姫は86歳で死去。


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奇しくも24日は伊達政宗の月命日と同じである。
墓所は瑞巌寺に隣接する陽徳院。
遺品の硯箱には伊達政宗の幼少時の手習いの書が大切にしまわれていたという。

愛姫は、以前から実家の田村家再興を願い出ていたことから、愛姫の子・伊達忠宗は、愛姫の実家に当たる田村家の名跡を、1653年、伊達忠宗の3男・伊達宗良に継承させた。
田村宗良は栗原郡岩ヶ崎10000石を与えられ、初代・岩沼藩主となっている。

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