三淵藤英とは 足利義昭の擁立に尽力し最後まで再興を試みた幕臣

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三淵藤英

三淵藤英(みつぶち-ふじひで)は、室町幕府の申次衆で、山城・大法寺城主である三淵晴員の子として戦国時代に生まれました。
そもそも和泉・細川家の一族であり、弟は養子に出されて細川藤孝細川幽斎)となっています。

2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、俳優の谷原章介さんが、三淵藤英を演じられます。


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1540年頃から奉公衆としての活動が見らますが、父が出家すると、三淵弾正左衛門尉となりました。
1565年、室町幕府の第13代将軍・足利義輝が、三好義継ら三好三人衆に暗殺されます。
このとき、三淵藤英は弟・細川藤孝らと、足利義輝の弟で一乗院門跡になっていた僧侶の覚慶を、監禁されていた興福寺から一色藤長和田惟政、仁木義政、米田求政らと共に救出しました。
そして、近江・矢島にて還俗させ、足利義昭と改名させて15代将軍にすると、一緒に行動して越前の朝倉義景を頼りましたが、のちに織田信長の協力を得ています。
その過程で、細川藤孝や、越前にいた明智光秀も織田家に仕えるようになったと言う事になります。

1568年、織田信長と共に足利義昭が京に上ると、三淵藤英は伏見城あたりを警護しました。

こうして、三淵藤英は、足利義昭の重臣となり、1568年には大和守を叙任しています。
しかし、足利義昭と織田信長が対立すると、弟の細川藤孝は、織田家に従う判断をしたため、三淵藤英は激怒し、細川家の勝竜寺城を攻撃しようとしましたが失敗に終わっています。

勝竜寺城

1573年、ついに足利義昭が挙兵して槇島城に籠城すると、三淵藤英は二条城にて、幕臣の伊勢貞興、日野輝資、高倉永相などと共に守備しました。
しかし、大軍の織田勢に包囲されると、他の武将はみな降伏してしまい、最後に柴田勝家の説得を受けて、10日ほどで三淵藤英も城を明け渡しました。

その後、三淵藤英は本拠の伏見城に戻りましたが、すぐ近くの槇島城も陥落し、降伏した足利義昭は三好義継の河内・若江城に追放され、室町幕府は滅んでいます。

最後の最後まで将軍家への忠誠を貫き通した三淵藤英も、ついに織田家に従い、まだ籠城を続けていた岩成友通淀城を、細川藤孝と共に攻撃しています。
翌年、三淵藤英の所領は、突然没収され、明智光秀に預けられました。
そして、織田信長の命により、嫡男・三淵秋豪と共に、三淵藤英は坂本城にて自害しています。


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次男・三淵光行は、細川藤孝に預けられており、その後、細川家に仕えました。
1600年、田辺城の戦いの際に、細川光行は奮戦して叔父を助けたことが評価され、徳川家康が旗本にしています。
また、もう一人の弟・長岡義重は、三淵家の名跡を継ぎ、細川忠興に仕えました。

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