夢窓疎石~公武に渡って重んじられた南北朝の禅僧~

太田先生

日本史を紐解くと、古代の仏教伝来から江戸開府に至るまで仏教僧がブレーン、顧問として時の為政者に重んじられているケースが多く見受けられます。本項で紹介する夢窓疎石(むそうそせき)もそのひとりで、鎌倉末期から南北朝時代と言う複雑な世情を生き抜いて為政者を導いた僧侶です。

夢窓疎石とは

夢窓疎石はその人生で数多くの事跡を残したのに反比例し、自身の本名はおろか両親の名前すら不明で、建治元年(1275年)の11月1日に伊勢国(三重県)で生まれたことを除き、幼少期のことはよく分かっていません。宇多天皇の9世孫とも母方が平氏の生まれだったとも言われており、若くして出家した疎石は母方の一族で起きた争いの影響で甲斐(山梨県)に移り住んでいます。

弘安6年(1283年)に甲斐の天台宗寺院・平塩寺で真言宗・天台宗を学んだ疎石は、9年後の正応5年(1292年)に東大寺で受戒しました。その翌年に天台宗の高僧・明真が示寂(死去)する時に立ち会うも、何の教えも解かれなかったことで疑問を抱き、禅宗に惹かれるようになったと言われています。

その後、疎石は京都の建仁寺や鎌倉の東勝寺・建長寺を始めとする諸寺を巡って修行する日々を送り、嘉元3年(1305年)には若き日を過ごした甲斐に戻り、同地にある牧の荘で浄居寺を創建しました。それ以降も疎石は一ヵ所に留まることがなく、文保2年(1318年)に土佐(高知県)の吸江寺を創建しますが、覚海尼(北条高時の母)の招請を逃れるのがその理由です。正中2年(1325年)、旅に明け暮れて修行三昧の疎石に人生の転機が訪れます。それは、後醍醐天皇の要請による上洛でした。

南北朝の動乱を生き抜き、才覚を花開かせ

後醍醐帝の招聘を受けた疎石は勅願の寺であった南禅寺の住持と言う重職に任命されますが、彼はそれに留まらず高時の招きで円覚寺に赴き、元徳2年(1330年)に甲斐の恵林寺を開くなど、精力的に活動します。鎌倉幕府が倒れて2年後の建武2年(1335年)には足利尊氏を勅使として派遣した後醍醐帝に呼び戻され、臨川寺の開山を行いました。
この時、尊氏から師と仰がれたことで足利氏との縁ができ、著名な号である夢窓国師の名を天皇から賜っています。

翌年に起きた建武の乱で勝利した足利氏による室町幕府が成立されると、疎石は武家からも深く信任され、後醍醐帝が崩御した際には天龍寺建立の資金を得るために貿易船を大陸に派遣(天龍寺船)しました。一連の戦乱で死んだ人々を弔うための安国寺、利生塔の建立も疎石の進言によるものです。

また、観応の擾乱では尊氏と直義の仲裁を行ってその政治力を発揮し、禅庭や枯山水を極めるなど文化人としても活躍し、多くの人々に帰依された夢窓疎石は北朝の観応2年(1351年、南朝は正平6年)の9月30日に77歳の人生を終えました。疎石は生前に夢窓国師・正覚国師・心宗国師、死後に普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師の称号を与えられており、『七朝の帝師(七朝帝師)』と呼ばれ、夢窓派の開祖とされます。

映像作品にも登場し、後世でも活躍する疎石

ここまで紹介したのが、史実における夢窓疎石の事跡です。宗教者だけでなく、文化人・政治顧問としても優秀な逸材であった疎石は、様々な作品にその名を残しています。ダントツで有名なのは『太平記』で、史実通りの活躍を記される一方で延暦寺によって禅宗が批判されるくだりで疎石がやり玉に挙げられるなど、騒動の一因となった人物として活写されます。同時代を扱った大河ドラマ『太平記』では多武謙三さんが疎石役で出演されました。

歴史書『梅松論』に記された尊氏の勇気と優しさ、清廉で無欲な生き様を評した3つの辞を残したこと、そして自身が記した『夢中問答集』や五山文学の漢詩、勅撰和歌集に入集したことでも疎石の名は知られています。また、作曲家・武満徹さんのオーケストラである『夢窓』のタイトルは疎石の名から取られた作品です。

連続テレビ小説『ばけばけ』のモデルとなった小泉八雲の『怪談』に収録された『食人鬼(じきにんき)』では、私利私欲と邪な心が原因で魔物と化した老僧を救う主人公として疎石は描かれます。この作品がドラマに登場するかはまだ不明ですが、時代を超えて様々な姿で語り継がれていく名僧・夢窓疎石の活躍が更に広く知られていくことに期待しつつ、筆を置かせていただきます。

(寄稿)太田

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