遠山直廉 苗木城を築城した苗木・遠山氏

遠山直廉




遠山直廉(とおやま-なおかど)は生年不詳ですが、遠山左近佐直廉、遠山正廉とも、遠山勘太郎とも称します。
天文年間(1532年~1555年)に苗木城(なえぎじょう)を築城したのが遠山直廉と言う事になります。
まず、遠山直廉の父は、美濃・岩村城主である遠山景前(または遠山景友)で、次男または三男として生まれました。
母は不詳です。


兄である遠山景任(または遠山景前)が当然、岩村遠山氏の家督を継いで岩村城主になった訳ですが、弟である遠山直廉は、天文21年(1552年)に断絶した苗木氏(遠山七頭のひとつ)である広恵寺城主・遠山景徳の養子となりました。

遠山直廉は当初、手賀野館(岐阜県中津川市手賀野)を新築しますが、のち高森山砦を拡大改修し、苗木城を築いて、苗木遠山氏の本拠としました。

苗木城

なお、稲葉山城主・斎藤道三に一時臣従しています。
しかし、天文23年(1554年)から武田信玄が信濃・伊那を支配下におさめると、弘治元年(1555年)より東美濃にも侵攻を開始します。
そのため、遠山一族は遠江衆の天野景泰を通じて武田家に臣従したようで、武田に人質を出しました。

弘治2年(1557年)7月、岩村城主の兄・遠山景前が病没すると、その嫡男・遠山景任が家督を継ぎますが、まだ若かったため、遠山宗家の後継者争いが勃発します。
遠山景任は武田の後ろ盾を得て当主となりましたが、同様に遠山氏は織田信長や斎藤道三とも誼を得ると言う、大国に挟まれ苦しい運営を強いられました。
大圓寺・安国寺・政秀寺の外交僧を通じて巧みに外交を行っています。

なお、時期は不明ですが、織田信秀の4娘(織田信長の妹)が、苗木勘太郎に嫁いだと言う記録があります。
この苗木勘太郎は、遠山直廉と同一人物と考えられており、織田信秀の妹・おつやの方も、岩村遠山氏の遠山景任に嫁いでいるため、遠山氏と織田氏は重縁の関係でもありました。

1560年、桶狭間の戦いに、織田勢の武将に苗木勘太郎の名が見受けられ、遠山直廉に比定されますが、もちろん諸説あるようで、遠山友勝遠山友忠を、苗木勘太郎とする説もあります。


また、織田信長は1565年に、織田掃部助を甲斐に派遣して、武田勝頼との婚儀をまとめています。
この時、織田家から嫁いだ娘は、遠山直廉(苗木勘太郎)と織田信秀の4娘(織田信長の妹)との間に生まれていた娘で、織田信長の養女として嫁ぎました。
この娘が、のちの龍勝院(りゅうしょういん)で、1567年11月に、武田勝頼の嫡男・武田信勝を産みました。
さらに、織田信長は、織田信忠松姫(武田信玄の5娘)との婚約も成立させますが、婚姻には至っていません。
なお、龍勝院は、元亀2年(1571年)9月16日に死去したため、1577年に武田勝頼は継室として北条氏政の妹(北条夫人・桂林院)を迎えています。

ただし、1569年に武田信玄が駿河へ侵攻した際に、遠山直廉は武田勢に味方して参戦するなど、武田と織田と両陣営に属した働きをしています。

元亀3年(1572年)にも、武田に属して、岩村の遠山景任と共に飛騨国益田郡に侵攻して三木氏と戦うと威徳寺を焼くなどしています。
しかし、この威徳寺の戦いで受けた矢傷にがもとで、苗木城へ戻ったあと、1572年5月18日に遠山直廉は没しました。


遠山直廉には男子がいなかったため、飯羽間遠山氏の遠山友勝が、織田信長の命により苗木城主となっています。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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