小笠原長時とは
小笠原長時 (オガサワラ ナガトキ) 1514年11月9日 ~1583年4月17日
1514年11月9日小笠原長棟の長男として生まれる。
小笠原氏は、甲斐源氏・加賀見遠光の次男・加賀見長清が、甲斐国小笠原村に移り、小笠原を称したのが始まり。その後、信濃国を本拠として全国に小笠原一族を分出した。
源頼朝による信濃国支配は、源氏の有力御家人を送り込む支配方式を取り、小笠原氏も源氏一門として甲斐から信濃へ勢力を拡大したようだ。1185年、源頼朝の推挙で信濃守に任じられている。
鎌倉時代からは北条氏が信濃守護職を得ていたが、その間、小笠原氏は北条氏と関係を結びながら信濃で勢力を拡大し、建武の新政により1333年小笠原貞宗が信濃国守護に補任された。
しかし、一時、関東管領上杉朝房が信濃守護に任命されるなど、守護職が迷走したり、村上氏や海野氏、高梨氏などの国人の反感もあり「大塔合戦」なども勃発した。
その後、小笠原家は2家、3家に分れ、信濃国内で対立することなる。
小笠原長時の父・小笠原長棟が1534年、対立する伊奈小笠原氏の当主・小笠原長基を打倒し、分裂していた小笠原氏を統一。
さらに敵対していた諏訪氏と和睦するなど戦国期の基礎を築いたがお家対立が戦国大名として勢力拡大の遅れを取った。
小笠原長時の登場
小笠原長時は1526年に13歳で元服。1541年、父・小笠原長棟が出家した為、家督を継いだと考えられている。小笠原長棟は1542年死亡であるが、実際、1541年頃から小笠原長時が当主として小笠原勢を率いている。
小笠原家は代々、弓馬に優れた武人を輩出し、小笠原長時も武勇だけなら武田信玄にも劣らないと言われているが、名門意識が異常なほど強く、傲慢で、家臣の意見を余り聞く事がなかったと言われている。
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塩尻峠の戦い
武田晴信が諏訪を征服するなど、武田氏の台頭により、敵対していた村上氏とも協力関係となったが、村上義清が武田晴信に攻められても、小笠原長時は兵を動かさず、常に成り行きを見る。
1548年上田原の戦いで、武田晴信が村上義清に大敗すると、その武田敗退の報を聞き、小笠原長時は武田の所領になっていた諏訪へ村上氏や仁科氏、妹婿で一度武田氏に降参した藤沢頼親などと共に進入し、1548年4月5日諏訪下社を攻めた。
村上勢は別途佐久方面からも武田所領に侵入。4月25日、武田勢・上原昌辰の守備する内山城に放火している。
小笠原長時は、6月10日にも再び諏訪下社へ侵入するが、諏訪下社の地元人が協力して小笠原勢を迎え撃った為、小笠原長時の身辺に仕える馬回りの17騎と雑兵100人余りが討ち取られ、小笠原長時自身も2箇所に傷を負った。
一方、この間も村上義清は佐久方面で武田所領を奪って行く。
7月10日には、諏訪郡宮川以西の西方衆と呼ばれる諏訪神家の一族矢島氏、花岡氏らが、小笠原長時に通じ、武田に反旗を翻し、武田勢の神長官・守矢頼真や千野靱負尉(ゆきえのじょう)らは上原城へ撤退し、小笠原氏の勢力が諏訪に延びようとしていた。
これに対抗すべく武田晴信は7月11日に甲府を出陣。しかし、行動はとても慎重で18日になっても甲斐領内・跡部氏の田屋に留まりから出る様子を見せなかったが、実は小笠原長時を油断させる作戦であった。
7月18日からは進行速度を全速にして大井の森(現在の北杜市長坂町)より諏訪・上原城に入り、すぐさま深夜ひそかに進軍し、夜陰に紛れて小笠原勢近くまで押し出した。
そして、塩尻峠の峰に本陣を置いていた小笠原勢5000を19日早朝に急襲。「朝懸け」と呼ばれる戦である。
武田本隊はまだ来ないと、防御体制もできていなかった小笠原勢は不意を突かれて大混乱となり大敗北。1000名を超える死者を出し敗走した。智謀に優れ、弓の名手として知られた神田将監も就寝中を襲われ討死。
ただ、この敗北には、小笠原勢の三村長親、西牧信道らが武田に内応して背後から小笠原長時を襲ったとも言われる。
また、戦いのさなか、小笠原氏の一門衆である仁科盛明が戦後の恩賞条件として小笠原長時に下諏訪の領主になることを願い出たが拒否されて、戦わずして戦線を離脱したことが敗因とも言われており、武田の調略による小笠原敗北もあったようだ。
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本拠地「林城」を追われる
塩尻峠の戦いで勝利した武田勢は諏訪・西方衆も追討し、西方衆の家々に火をかけ、また、勢いに乗じて、塩尻峠を越えて、小笠原氏の本拠地・府中(松本)まで追撃。
小笠原長時の林城付近を焼き払って、7月25日上原城に帰陣した。
武田勢はすぐさま佐久に進軍し、田口城を始め近辺の13城も落としている。
武田勢は更に10月4日、小笠原氏居城・林城まで約6kmの地点(現在の松本市芳川小屋)に村井城を総普請開始し、松本方面へ本格的な侵入の準備を開始した。
塩尻峠の戦いで大敗した小笠原長時は、戦力も衰退し、戦線離脱していた仁科盛明らが武田に寝返るなど、以後武田勢の進入を止めるだけの力すらなくなっていたようだ。
翌年1949年8月には、武田晴信が佐久を再び武田氏の勢力下に入れ、佐久の失地を回復した。
1550年、武田晴信は小笠原氏攻略の為、7月3日甲府を出発。7月10日に村井城に入っている。小笠原長時は既に求心力を失っており、7月15日夕刻、林城に近い出城の1つである小笠原勢の犬飼城(犬甘城)が武田勢の攻撃を受け落城。
埴原城では小笠原の旗本・須沢清左衛門が討死している。
その夜、小笠原勢の大城(林城)、深志城(松本城)、岡田城(伊深城)、桐原城、山家城5城では城兵が逃亡し、島立城(荒井館)、浅間城の2城は武田に降参した。
小笠原勢の大町・仁科道外、青柳城主・青柳頼長、刈谷原(苅谷原)城主・赤沢経康らも、前後して武田に屈したようで、小笠原長時は戦わずして平瀬城に落ち、やがて葛尾城の村上義清を頼って領国を放棄した。
武田晴信は小笠原氏本拠だった林城を破棄。7月19日深志城の鍬立式を行い、23日には深志城(松本城)の総普請を開始した。
小笠原長時の没落
1550年9月の村上氏・砥石城攻めで武田晴信は村上義清にまたもや大敗。武田晴信(のちの武田信玄)の生涯の敗戦2回は、上田原と砥石城の敗北のたった2回と言われている。
再度、武田晴信に勝利した村上義清は、平瀬城(松本市)で再起を図っている小笠原長時を助ける形で松本平に進出し、その後小諸へも進み、武田に奪われていた城を奪還している。
この際、小笠原長時は村上義清軍3000を借りて深志城を奪還しようとし塔ノ原城へ出陣。さらに1550年10月末、小笠原長時が梓川氷室に陣取ると、武田に下っていた旧小笠原氏家臣が集まりだし、総勢4000を越えた。更に鳥立城も小笠原勢に協力した。
しかし、一夜にして村上勢が断りもなく葛尾城へ帰陣してしまい、小笠原勢は戦意喪失。村上氏も高梨勢や武田との対立で、小笠原氏を助けるどころではなくなったと考えられる。
武田勢は飫富虎昌が大将となり梓川野々宮に布陣。塩尻からは上条藤太が小笠原氏の援軍に駆けつた事により小笠原勢は奮立ち、小笠原長時も武田騎馬隊を18人を討取った。
武田勢は先陣が崩れたために退却。この野々宮合戦で武田勢はおよそ300が討死したと言われている。
武田晴信の出陣を聞くと、武田本隊約10000との兵力差に小笠原長時はこの戦勝も風前の灯(ふうぜんのともしび)に過ぎないと自害しようとしたが、二木重高におしとどめられ、二木重高が守る中塔城へ籠城した。
籠城3日目には武田勢が中塔城を囲み、激しい戦いとなったが約半年にわたって中塔城は抵抗した。武田晴信は小笠原長時に降伏勧告をしたが、小笠原長時は降伏を拒んだ。
しかし、城を脱出し、村上義清や下伊那にいる弟の小笠原信定(鈴岡城)を頼り逃亡した。中塔城内では二木家臣が武田氏に寝返り放火するなど、もはや武田氏に降伏するほかなくなり開城。
激しく武田に抵抗した二木重高一族は甲斐へ送られるが、武田家臣に取り立てられ、その後、1555年三村氏が深志城・馬場信房を攻撃した際に戦功があり武田氏から80貫門を知行している。
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1551年10月24日には、小笠原氏の領土回復を狙う残党が残った平瀬城を武田勢は猛攻し落とす。城主・平瀬義兼(平瀬八郎左衛門)は自刃。小笠原勢の戦死は204と言われている。
その時、武田勢の原虎胤が平瀬城主を命じられている。
さらに武田勢は仁科一族の古厩盛兼が守備する小岩嶽城を10月27日攻撃するが難攻不落で陥ちず、宿城(城下町)に放火して引き上げた。
武田氏は村上氏攻略と小笠原の残党攻撃を平行して進め、小笠原勢で最後まで武田に抵抗する小岩嶽城(小岩岳城)を再び攻撃するため1552年7月27日甲府を出発。
8月からの猛攻撃は昼夜つづき8月12日落城。春日源助が先頭に立って奮戦し城内に駆け込み、武田軍を城内に導き、城将・古厩盛兼(小岩岳図書)を自刃に追い込む大活躍をした。武田勢は500余人を討ち取り、城主・古厩盛兼の子・小岩岳盛通も自害し、小笠原氏はほぼ領地を追われた。
春日源助はこの小岩嶽城(小岩岳城)攻めの戦功により50騎の足軽大将に抜擢され、名も春日正忠(春日弾正忠正忠)と名を改めている。そして同年1552年、150騎に更に出世して1553年からは小諸城主を勤めた。
この春日正忠こそ、のちの香坂虎綱(高坂虎綱)である
さて小笠原長時はこの年に越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り逃亡したと考えられており、小笠原氏は没落した。
その後の小笠原長時
越後の長尾影虎に身を寄せていた小笠原長時は、その後、遠い親戚の三好長慶を頼って溝口長勝ら家臣と共に京に上洛し、摂津・芥川城で暮らしつつ、将軍・足利義輝の騎馬指南役を務めた。
しかし1564年、三好長慶が病死し、1565年に足利義輝が松永久秀により暗殺され、1568年には織田信長が上洛すると三好氏が没落したため、再び越後に戻り上杉謙信を頼り、越後で500貫を知行した。
1578年、上杉謙信死後は跡継ぎ争い「御館の乱」を逃れて越後を放浪した末、会津・蘆名氏を頼った。しかし、1583年4月17日、会津で死去した。享年70。
この前年の1582年には宿敵・武田氏が織田信長に滅ぼされ、3男・小笠原貞慶が旧領に復帰しており、長時も旧領へ戻る旅の準備をしていたが、その最中に怨恨を抱いていた家臣に殺害されたとも言われている。
ちなみに、妻の母は「狐」と言う話がある。
小笠原長時から各地の家臣に出された文書が極端に少ないと言う研究結果がある。
要するに「在地不掌握」と言い、領国の家臣がどれだけの所領と兵力を持っているか把握していなかった事を意味しており、結果、計画的に戦争ができなかったと考えられる。
どの家臣にどれだけの兵があるか不明な為、戦をするので何人の兵を出すようにと明確な指示が出せず、勝ちそうな戦であれば多くの兵が集まり、負けそうな戦であれば少ないと言う状況下で、結局、小笠原長時が損得で考えるのと同じ状況が家臣団にもあったと言える。
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小笠原諸島との関係?
ちなみに、東京都の遥か南にある「小笠原諸島」は、小笠原長時の孫にあたる小笠原貞頼が発見したと伝えられる。1593年、徳川家家臣になっていた深志城城主・小笠原貞頼が徳川家康より南方航海の命を受けて、小笠原諸島を発見した。
当時の小笠原家当主は、武田滅亡により1583年所領回復した小笠原貞慶であるが、豊臣秀吉の怒りに触れ1590年所領没収となっており、以後、深志城(松本城)城主は徳川家康から離反し、豊臣秀吉に下ったばかりの石川数正が入っている。
なお、小笠原貞頼が小笠原諸島を発見したと言う説は、小笠原貞頼の子孫と称する小笠原貞任が江戸中期の1727年に主張したのが始まりであり、小笠原探検の事実を裏付けるものは一切無い。
また、小笠原家の家系図には小笠原貞頼と言う名はみられず、これらのことから小笠原貞頼は架空の人物であると考えられている。
小田原北条氏の一門衆に小笠原長房と言う人物がいる。信濃小笠原氏が先祖であり、母は北条氏康の娘である。北条氏滅亡後は、徳川家康に仕える大番組頭(警備隊長)にもなっている。
これら相模国の北条氏に仕え、その後、徳川家康に仕えた小笠原氏に関係する者が南方に島々を発見し、小笠原諸島と命名したと考えるのが自然か・・。
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