小野政直 小野政次 小野玄蕃 小野朝之 【井伊家の重臣である小野家の真実】

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井伊家の家臣でありながら親今川家で、2度も井伊家に謀反を起こし、おとしいれたとされる小野家について調べてみました。

まず、この「小野家」は京都の貴族につながる名門、小野小町を輩出した小野家の庶流と考えられています。
遣隋使・小野妹子から数えますと、26代目が小野和泉守道高となり、家格としては主家・井伊家よりずっと名門で、遠江国赤狭郷小野村(静岡県浜松市浜北区尾野)を領していた模様です。

小野政直(小野道高)

小野政直(おの-まさなお)(小野道高、小野和泉守道高、小野和泉守政直)は井伊家で家老を務める重臣でしたが、当主・井伊直宗が1542年8月に、三河・田原城の戦いで野伏に襲撃されて討死したあと、井伊家惣領となった井伊直盛に対して反抗します。

井伊直盛には男子がいなかったため、その跡継ぎに、井伊直満の子である井伊亀之丞(井伊直親)を据えようとして、娘・次郎法師(井伊直虎)の婿養子として迎えようとしました。

小野政直(小野道高、小野和泉守政直)はこの事を快く思わなかったようで、その井伊直満と、弟・井伊直義武田信虎との内通していると、今川義元にウソの密告をします。
そのため、今川義元から謀反の疑いを掛けられた井伊直満と井伊直義の2人は、1544年12月23日に自刃しました。

また、小野政直(小野道高)は、10歳である井伊亀之丞(井伊直親)の命をも狙ったため、家老・今村正実(今村藤七郎正実)が亀之丞を連れて、信州伊那郡市田村の松源寺へと逃れました。

高森・松源寺

この小野政直(小野道高、小野和泉守道高、小野和泉守政直)が1554年に亡くなると、その翌年に井伊亀之丞(井伊直親)は今川家の家臣に復帰したとされます。

小野政次(小野道好)

小野道好(小野但馬守道好)は、1554年に死去した、小野政直(小野道高)の嫡男で、弟に小野玄蕃(小野朝直)がいます。
大河ドラマ「おんな城主・直虎」においては、幼名が鶴丸で、小野政次(おの-まさつぐ)と名乗り、小野政次は高橋一生さんが演じます。
この小野政次(小野道好)は、1560年に井伊家当主・井伊直盛が桶狭間の戦いで、今川義元と共に落命したあと、家督を継いだ井伊直親が松平元康に内通しようとしていると、今川氏真にウソの報告をします。
まぁ、もしかしたら、嘘では無く、井伊家は本当に松平家に近づこうと思っていたかも知れませんが、いずれにせよ、井伊家の家臣でありながら、またしても告げ口をしたと言う事になります。

25歳の今川氏真は相次いで家臣の離反があったことからも、その話を信じてしまい、謀反を疑われた井伊直親は駿府に呼ばれました。

その駿府に向かう井伊直親の一行は20騎は、途中の掛川城下に到着した1562年12月14日、今川家の重臣・朝比奈泰朝の手によって襲撃されます。
そして、井伊直親は殺害され、主従も19人も誅殺されたことから、井伊家は危機的な状況となりました。


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更に小野政次(小野道好、小野但馬守政次、小野但馬守)は、まだ幼い井伊直親の子・万千代(井伊直政)や、井伊直虎を探し出して殺害しようとしたと言われています。

その後、井伊家を井伊直虎がかじ取りするようになると、井伊谷に「徳政令」を出すべく奔走し井伊家や豪商・瀬戸方久を追い詰めます。
そして、徳政令が出ると小野政次(小野道好)は1568年に井伊直虎に対して謀反を起こして井伊谷城を奪取し、一時的に井伊谷城主となりました。

井伊谷城

しかし、井伊家は徳川家康の支援を受け井伊谷三人衆(近藤康用菅沼忠久鈴木重時)が案内して徳川家が井伊谷城を攻撃したため、小野政次(小野道好)は洞窟に隠れたとされています。
ほどなく近藤康用に捕縛されると、翌年1569年4月7日、徳川家によって小野道好(小野但馬守)は磔(いしずえ)にされました。
約1ヶ月間だけ井伊谷城主となった小野政次でしたが、5月には小野政次(小野道好)の2人の子も処刑されたようです。

蟹渕

小野政次(小野道好)らは、井伊谷城の東を流れる井伊谷川の蟹渕にて打ち首になったともあります。

蟹渕

上記の写真2枚は、蟹渕の付近とされるところになりますが、正確な場所は不明です。

なお、江戸時代に入って、井伊谷城の中腹にある二宮神社の神主・中井氏が、小野政次を祭神とした但馬社を建てて供養しました。

井伊谷・二宮神社

上記が二宮神社となります。

小野政次を祀る天王社

現在、その但馬社は失われていますが、二宮神社の本殿から右にある天王社(上記)に合祀されています。

井伊家に対して本当に反逆行為を働いたのであれば、このように井伊谷城の麓に「但馬社」として祭られることは無かったように思えます。
そう考えますと、2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主・直虎」での小野政次の取り扱いのように、表向きは井伊家を潰そうとしましたが、小野政次は自らの命と引き換えに、ギリギリのところで井伊家存続を図ったのかも知れません。

ご紹介した天王社がある二宮神社や、蟹渕の場所は下記のオリジナルマップでわかるようにしてあります。

井伊谷や直虎ゆかりの観光スポット・Googleオリジナル地図

小野玄蕃(小野朝直)

小野玄蕃(小野朝直)は、小野政直(小野道高、小野和泉守道高)の次男で、兄は小野政次(小野道好)となります。
子は小野朝之
正室は井伊直親や新野親矩(新野左馬介)と同じく、奥山朝利の娘とされます。(おんな城主・直虎では、山口沙弥加さんが演じる・なつ)
桶狭間の戦いでは、井伊直盛とともに出陣した模様で、井伊家では一族と重臣16名が討死していますが、小野玄蕃(小野朝直)も戦死したと考えられているようです。

龍潭寺には小野家の墓所があり、他の家臣らよりも広いスペースで供養されています。

龍潭寺・小野家墓所

2箇所も小野家の墓所があり、他の重臣の墓所を圧倒しています。
小野家が本当に井伊家を落とし入れたのであれば、井伊家の菩提寺・龍潭寺に、これだけの規模で、小野家の墓所が残っていたでしょうか?

龍潭寺・小野家墓所

なお、井伊家の為に戦って討死した小野玄蕃の墓は、下記の通り単独で龍潭寺にありますので、また別格です。

小野玄蕃の墓

兄・小野政次は、結局、井伊家を裏切る形となるのが歴史的には見受けられる事項となりますが、小野一族は、このように井伊家の為に命を捧げている武将がいるのも事実です。
小野玄蕃の子孫には、彦根・井伊家の分家筋となる、与板藩にて家老を務めた小野七郎左衛門がいます。

小野朝之

小野朝之(万福、小野亥之助)は、小野政次(小野道高、小野和泉守道高)の次男・小野朝直(小野玄蕃)の子。

1575年2月15日、井伊直政が徳川家康の小姓となった際に、共に小野朝之(小野亥之助)も出仕したようで、その際、徳川家康より万福の名を与えられています。
ちなみに、井伊直政は徳川家康から万千代の名前を授かっています。

この小野朝之は、小野政次が処刑されたあとも、生涯、井伊家に仕えたとされています。
ここでも、小野政次が本当に裏切っていたら、小野一族の子を、井伊直政は家臣に加えなかったはずであるとも推測できます。


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歴史のウラの部分と申しましょうか、本当はどうだったのか?、確かめるすべはありません・・。
しかし、小野政次が生死を掛けて守ったとしたら、井伊家が、徳川家康のもとで第一の家臣になれたのも、小野政次が最後まで示した真の忠義があったからだと言えるでしょう。

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コメント

  • コメント ( 7 )

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  1. 通りすがり

    傑山と昊天の役者さんが逆じゃないでしょうか

  2. とおりすがりさま、ご指摘ありがとうございます。
    印象が真逆と言うところを誤って、そのまま明記してしまっていました。
    ありがとうございました。

  3. 細江出身者

    北区細江町で最も井伊谷寄りの辺りの地名が「小野」(旧:小野村)ですが、
    小野家が由来の地名かご存じないでしょうか?
    領地が「尾野」とのことですが、井伊谷からはちょっと距離があるので、
    出仕するのに別邸がこの辺にあった、とか、朝之の領地、とかでもおかしくないかな、と。

    一番上の堰の写真は20年ほど前のものでしょうか?
    私が思っている場所であれば、写真奥が「小野」ですね。

  4. トップの写真は、申し訳ありません、処刑されたと言う井伊谷川でございまして、撮影はたしか、今年(2017年)1月だったと思います。

    細江町の小野村が、井伊家重臣だった小野氏に関連すると言う史料や史跡は、見つかっていないようです。
    尾野の方は、江戸時代初期に、小野村から名前が変わったとの事ですが、その尾野には、小野篁の墓とされる石碑などもあることから、小野氏の本貫地であったと推測できるようです。
    ただし、戦国時代の小野氏もここにいたかどうか?となると、確証は得られませんが、他に史料がない限りは、戦国時代も所領は尾野だった可能性の方が高いだろうと考えるのが妥当だと存じます。
    しかし、そのような石碑も、作ったもん勝ち・残っているもの勝ちでして、小野篁はあまりにも有名だったので、自分の土地を有名にするため、または同じ名前で由縁を感じて供養するためなど、昔の方が、直接関係なく、石碑を立てた可能性も捨てきれません。
    それがたまたま残っているとも考えられるため、このように歴史は「憶測」に頼る部分は多いのも理解しておきたいところですので、細江も可能性は捨てきれませんが、判断は致しかねます。
    ご了承願います。

  5. 細江出身者

    高田様、ご回答ありがとうございます。
    写真は蟹渕だったのですね。昔よく似た堰が細江の小野にあったので勘違いしました。

    その後、調べたところによると、
    wikipedia の小野政直の頁にこんな記述がありました。
    「(小野家)末裔に伝わる系譜史料によると~~~、元は豊田郡小野村に住んでいた一族が井伊氏に招かれて引佐郡小野村に移ったのだという」
    出典が細かいところまで付いていないのですが、そのような研究があるようです。豊田郡小野村=現尾野ですね。

    私としても尾野が小野氏の本貫地であること自体は疑っておらずで、
    単に井伊の筆頭家老の所領にしては尾野が遠すぎるので(菅沼氏のいた都田よりも向こう)、
    はて?と思ったところが元であり、上記の説は個人的にはとてもしっくりきました。

    井伊家も小野家も平安よりある家なので、招聘がいつごろなのか不明ですが、
    小野氏が来たことにより細江に小野村ができた(元の集落が小野村になった)、
    という順とみるのが妥当かもしれません。

  6. とおりすがり

    政次が磔になったり打ち首なったり、標記のどちらが正しいのか、わかりません。処刑されたのは史実として知られておりますが、磔と打ち首は、全く違うものと思われますが、どうでしょうか。

  7. ご指摘の通り、解釈の難しいところですね。
    史料によっては打ち首、他の史料では礎、表現が様々です。