昨年は大河ドラマ『おんな城主 直虎』も話題となりましたが、城や領地、民や家臣を姫が守ったという史実は実際にございます。
乱世の戦国時代。女性が上に立つということは、大変な苦労があったかと思われます。
そして、戦国時代においての「おんな城主」は、井伊直虎だけではございません。
おつやの方という姫がおりました。
おつやの方は、戦国時代のカリスマ、織田信長公の叔母で、今の岐阜県恵那市にあった、岩村城の城主でございました。それは美しい姫だったと云われております。
おつやの方は信長公の叔母ではありますが、1544年の生まれだと言われており、信長公は甥ですが1534年の生まれなので、おつやの方は信長公よりも年下となります。
おつやの方は最終的に、武田氏、織田氏、徳川氏の勢力の接点である、東美濃の重要拠点に位置していた岩村城主の、遠山景任公の元に嫁ぎますが、その前にも二度の婚姻を経ていたといわれております。
この遠山氏との婚姻も甥の信長公による政略結婚でしたが、過去の婚姻も政略結婚だったようです。
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ですが、景任公との間に子供が授からなかったので、信長公の五男、御坊丸を養子として迎えたと伝わっております。
そして、おつやの方はまだ幼い御坊丸を、大変可愛がっていたそうです。
ただ、この地は多数の勢力の重要拠点に位置していたこともあり、勢力下に収めようと各武将達が水面下で様々な動きを見せておりました。
そんな中、織田と敵対する武田方の武将・秋山虎繁公によって岩村城は攻撃されてしまいます。
一度は信長公から派遣された援軍により撃退できたものの、この戦が元で、元亀3年(1572年)8月14日に、遠山景任公が病死してしまいます。これによって岩村遠山氏の血統は断絶してしまいました。
この時、信長公は東美濃の支配権を奪う好機として、自身の兄である織田信広公らを岩村城へ派遣し城を占領すると、自らの子である御坊丸を景任公の家督相続人とし、おつやの方を後見人としました。
戦国時代、女性は男性の道具として扱われるのが常でした。
こうしておつやの方は奇しくも「女城主」となったのです。
ですがおつやの方は母として、城主として、自身の役割を見事にこなし、しばしの間、穏やかな日々を過ごしていたようです。
ですが、東美濃の支配権が信長公に奪われたことに対し、武田信玄公は岩村城を奪う為に再度、秋山虎繁公を岩村城へ進軍させます。おつやの方は幼い御坊丸に代わり鎧兜に身を包み、城主として必死の応戦を続けたと云われております。
守りの堅い山城である岩村城はなかなか落ちず、戦はこう着状態に陥りました。おつやの方は領民達と共に、長い篭城を覚悟して戦います。
篭城中も信長公の元へ使者を送ったり、敵の情報を得るために動いたりと、城主として見事な働きを行ったと。
ですが信長公は一向一揆などで道を阻まれ、岩村城へ援軍を送ることがかないませんでした。
こうして包囲された岩村城は、武田氏に仕える者も多く出ていたといいます。
そんな状況を知った武田軍の秋山虎繁公は、武田信玄公の許しを得て、おつやの方に和議を申し出ました。しかしその内容はおつやの方にとって、受け入れ難いものでした。
和睦に応じるならば、領民、兵の命は守る。そして、御坊丸は自身の養子とし、おつやの方は虎繁公の妻になれというものでした。
幼い御坊丸の命と領民や兵の命…おつやの方は大変悩んだことと思います。
ですが母として城主として、秋山虎繁公との婚姻を受け入れました。こうして岩村城の城主は、秋山虎繁公となりました。
しかし条件に反し、幼い御坊丸は甲府へ人質として送られてしまいます。
敵武将との婚姻、御坊丸の人質、すなわちこれは…織田信長公への裏切り行為…
こうしておつやの方は、武田方へ転じます。
天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで武田方が織田方に敗北するまでの間、虎繁公とおつやの方は、共に力を合わせ岩村城を守り、いつか来るであろう信長公の侵攻に備えていました。
叔母に裏切られた形となった信長公が激怒したのは、いうまでもありません。
特に自身の息子を人質に出されたことは、許し難かったようです。長篠の戦いで武田軍を撃破したのち、信長公は嫡男の織田信忠公らを、岩村城へ大軍をもって進軍させます。
「叔母の城に火をかけるのは忍びない」等と信長公は言い、兵や子女に危害を加えないこと、秋山虎繁公やおつやの方の助命の約束を結び、岩村城を降伏させました。
ですが信長公は許すと見せかけ、虎繁公らが礼に来たところを捕らえ、和議の条件を破り、城兵を皆殺しにしました。
そして捕らえられた虎繁公らも、長良川近くで逆さ磔にされました。
そしておつやの方も信長公によって、逆さ磔にされたと…
あるいは腹いせの為に、信長公が自ら斬ったとも云われております。
信長公はしばしば逆上します。裏切りや敵対行為を大目にみることもありましたが、その分の反動は凄まじい。
この過酷な仕打ちに、おつやの方は「敵方であった秋山虎繁は開城に際し約束を守ったのに、身内である信長は和議の約束を反故(ほご)にするのか」と嘆き
「叔母をかかる非道の目に遭わせるとは。信長よ、必ず因果の報いを受けん」と叫び、果てたと云われております。
織田信長公が本能寺の変で亡くなったのは、その7年後です。
同盟の証としての戦国時代の女性の結婚…ですが秋山虎繁公との結婚は、おつやの方が自らが決断したに違いありません。
ですが、おつやの方のこの決断は、信長公にとっては裏切り行為以外の何物でも無かったのでしょう。
ならば、どうすれば良かったのでしょうか?
虎繁公が攻めてきたあの時、和議を受けず籠城し、御坊丸や兵や民と共に、亡くなれば良かったのでしょうか?
信長公に攻められたあの時、和議を受けず、虎繁公と城に残る者達と共に、自害すれば良かったのでしょうか?
そうすれば信長公は満足したのでしょうか…
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おつやの方は、悲劇の姫として語られております。
女子が生きるには厳しすぎた戦国の世において、政治の道具として扱われ、幾度もの夫の死を乗り越え、女城主としても生きた…
こうして自らの生き方を選んだおつやの方は、強き人だったのだと思います。
天にいるであろうおつやの方は、嫌がるかも知れませんが…
さすが織田の血を継ぐ強き女性、そのように思います。
(寄稿)在原 叶
・おつやの方と秋山虎繁(秋山信友)~織田家に処刑された命運
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・松井康之と本能寺の変 細川家重臣
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