戦国時代の我が国に多大なる影響を与えた物のひとつに、鉄砲伝来があります。
鉄砲が九州の種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられたのは、教科書でもおなじみですが、その背後には一人の中国人の姿がありました。それが、本項で紹介していく王直です。
王直(おうちょく)は、明国の徽州歙県(きしゅう・きゅうけん、現在の安徽省黄山市)に生まれ、本名を王鋥(おうとう)と言います。
彼の号は五峯(または五峰)、別名は老船主ないしは出身地に因んだ徽王がありました。
元々は塩商人をしていたが失敗した王直は、明による海禁政策に背いて禁制品の密貿易に関与し、後期倭寇の頭目にまで登り詰めます。
倭寇と言うと日本の海賊組織を連想しがちですが、日本人だけか日本人中心だったのは前期倭寇で、後期倭寇は中国人が多数を占めていたと言われています。
前期倭寇が元寇の報復から始まった日本人主体(中国・朝鮮系もいたが副次的存在)の武装組織だったのに対し、後期倭寇は中国人を中心に、日本を含むアジア諸国の民や西洋人も加えた多国籍の密貿易組織であり、彼はその1人だったのです。
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王直が日本と関係性を持つようになったのは1540年、五島に来住したのが始まりで、1542年(天文11年)には肥前の松浦隆信に招聘されて平戸(長崎県)に移っています。
松浦家の家臣が隆信から聞書きした書物とされる『大曲記』によると隆信の代に中国大陸から渡来した「五峯」が唐風の屋敷を建てたことが記されており、日本側でも名の知れた人物であった事が伺えます。
元来、王直の拠点は双嶼(浙江省寧波)だったのですが、明の官憲から取り締まられることが幾度かあり、1548年に双嶼が攻められた時は烈港(浙江省)に移り、1553年に烈港に明軍が押し寄せると、彼は五島や平戸など日本の九州に拠点を移しています。
そうした定住性の無い活動をしていた時、王直のジャンク船が種子島に漂着し、鉄砲を我が国にもたらしたのです。
1543年(天文12年)のことでした。
その時、王直は種子島の歴史書『鉄炮記』によると西村織部丞時貫と筆談をした儒生・五峯として記録されており、領主の種子島時堯が同乗していたポルトガル人から2挺の鉄砲を2千両もの大金で購入しています。
それが戦国時代を大いに変える鉄砲の導入でした。
こうして国境を越えて活躍した王直でしたが、その晩年は悲惨なものでした。
1556年に同郷であった胡宗憲が浙江の総督に就任して倭寇討伐を開始すると、海禁解除を訴えて恩赦を得ようとします。
胡は王直に官位や助命を提案して彼を降伏させますが、明王朝は処刑を命じたため王直は死罪に処されます。
1560年1月22日の事でした。
我が国における王直の扱いは鉄砲伝来や南蛮貿易をもたらしたことや武士、商人にも信頼されたことから高く評価されています。
しかし、中国では倭寇と結託した売国奴と言う見方が未だに強く、日本人が安徽省に建立した王直の墓碑に彫られた名前を削り取る事件が起きています。
(寄稿)太田
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