摂津池田氏の一族か? 池田二十一人衆である池田周防守の遺児とする説もある。
池田和泉守は荒木村重に仕え、織田信長への謀反にも参加し、有岡城北西の昆陽口砦を守備した。
1579年9月2日の夜、有岡城で籠城していた荒木村重が密かに尼崎城へ移る。
織田信忠は、まもなくこれを知り、9月12日尼崎城に近い七松に砦を築いた。
一方、荒木村重がいなくなった有岡城へは、滝川一益・明智光秀らが調略を開始。
10月15日には有岡城の防御拠点である上臈塚が陥落すると、他の防御拠点も次々と攻略された。
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11月15日、有岡城の開城を決意した有岡城留守居役・池田久左衛門(荒木久左衛門)は、城を出て尼崎城の荒木村重に会いに行った。
織田勢の条件は、尼崎城と花隈城を開城すれば有岡城で人質になっている妻子を開放するというものだった。
しかし、荒木村重は池田久左衛門(荒木久左衛門)を城内に入れ事もせず会わなかった為、使者としての役割を果たせなかった池田久左衛門は荒木家を見限り、有岡城に戻らないで淡路の岩屋へ逃走した。
留守中、池田和泉守は有岡城の警固を務めていたが、荒木久左衛門も逃亡し、一向に尼崎城より連絡が来ないのに絶望して鉄砲で自害。
信長公記によると、池田和泉守は、辞世の句を詠むと火縄銃に火薬を詰めて引き金を引き、自らの頭を撃ち抜いて自殺したとある。
この鉄砲自殺は、記録に見える日本最古の自殺方法であると考えられている。
辞世の句は「露の身も 消えても心 残り行く なにとかならむ みどり子の末」。
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