越前・朝倉家には優秀な剣術を持った武士を何名も輩出している。
ますば、朝倉家に仕えた山崎景邦と言う剣士から紹介してみたい。
山崎左近将監
山崎左近将監(やまさきさこんしょうげん)は、父・山崎景邦から中条流の剣術を指南され、富田流三家の一つ山崎流(中条山崎流)の祖となった。
朝倉義景が亡くなると、前田利家に仕えた。
名は山崎景成。通称は、のち山崎五郎右衛門。
富田景政
同じ、朝倉家家臣の富田景家(富田流小太刀の祖)がいたが、嫡男・富田勢源は剣術に非常に優れた武将で、一刀斎の師鐘捲自斎、佐々木小次郎らが弟子門人となっている。
しかし、眼病を患い、剃髪した為、次子の富田景政が家督を継いだ。
朝倉義景が自刃して、朝倉家が滅亡すると、富田景政(富田治部左衛門景政)は前田利家に仕えた。
賤ヶ岳の戦いで子の富田景勝が討死すると、同じく朝倉氏に仕えていた山崎景邦より養子を迎えた。この養子が後に「名人越後」と称される富田重政である。
富田景政は1596年に豊臣姓を下賜されている。
弟子には一刀流の流祖・伊藤一刀斎の師となる鐘捲自斎(富田勢源の弟子との説もある)がいるが、豊臣秀吉の甥・豊臣秀次に剣術を指南したと言う。
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富田重政
1554年に誕生した、富田重政(富田越後守重政)の父は山崎景邦。
本名は山崎与六郎、のちに山崎六左衛門、山崎大炊と名乗った。
富田景政から中条流の剣術を学んだ。前田利家に100石で仕えていたが、1583年、佐々成政との末森の合戦で戦功を挙げ、富田景政の娘を妻と結婚して養子に入り、富田流を継いだ。
その後も小田原攻めなどの合戦で手柄を立て、関ヶ原の戦いでは丹羽長重と刃を交えた戦功から13670石の大身となり、人持組頭に就任。
1603年に隠居したが、60歳の老齢でも前田利常に従って大坂の陣に参戦し首級19を挙げたと言う。
このように富田重政の剣は越後の名人と言う意味で「名人越後」と称された。
また、2代将軍・徳川秀忠に兵法について言上もしている。
1625年に72歳で死去。
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