謎が多い庄元祐~穂井田元祐・荘元祐の運命

庄元祐

荘元祐(しょう-もとすけ)は、庄元祐とも書きますが、穂井田元祐とも言います。
生年は不明で母の名前もわかりませんが、父は備中をほぼ統一した三村家親となり、長男として生まれました。

庄氏(荘氏)は、もともと武蔵七頭のひとつである児玉党が出自ですが、庄太郎家長が、一ノ谷の戦いで平重衡を捕縛すると言う武功により、備中国小田郡草壁庄を賜りました。
のちに、惣領家が備中に移って猿掛城を築き、本貫だった武蔵・本庄城は分家が引き継いで、本庄氏を称したと言うことになります。

室町時代には、庄氏・石川氏が備中守護代を努め、庄為資の時代に、備中庄氏は最盛期を迎えます。


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庄為資は、1533年に月山富田城の尼子氏と同盟し、庄氏一門の植木秀長の協力によって、備中松山城の上野頼氏を破り、本拠を移しました。
荘為資は備中守を称し、備中半国10000貫になり、吉備津神社にも関与するなど影響力を強めました。

やがて、尼子晴久が備中を制しますが、吉田郡山城の毛利元就を攻めきれず、庄氏の一族・穂井田実近が、鶴首城の三村家親と争いを起こします。
備中の国人は、ほとんど尼子氏を頼っていましたが、三村家親は毛利元就に助けを請い、毛利家は備後平定に乗り出し、天文18年(1549年)には神辺城を攻略しました。、
毛利家の後ろ盾を得た、三村家親も、次第に勢力を伸ばして行きます。

そして、1551年、毛利元就・毛利隆元吉川元春らは、三村家親を先陣にして、穂井田実近の猿掛城を攻めました。
このとき、穂井田実近は城から打って出て、毛利勢に打撃を与え、庄為資も一千騎を率いて対陣しましたが、この圧迫に荘為資は毛利氏との和睦を決意しました。

三村家親の嫡男・三村元祐を、穂井田実近(もしくは庄為資)の養子として迎え、猿掛城を事実上譲ったのです。
三村元祐は庄元資と改名しましたが、一般的には庄元祐と呼ばれることが多いです。

庄為資が死去したあと、庄高資(しょう-たかすけ)が家督を継ぎますが、尼子氏と結んで猿掛城の庄元資(庄元祐・穂井田元祐)と、対立するようになりました。

しかし、尼子家から援将として吉田左京亮が庄高資のもとに派遣されると、城を失っていた庄高資は、猿掛城を頼って逃れてくると言う有り様で、毛利元就は備中・松山城を奪取して、庄高資を城主に据えて恩を売ります。
そして、三村家親を備中松山城に入れて、荘高資を監視させたと言います。
こうして、力を付けた三村家親は、1561年に備中松山城の戦いにて庄高資を破ります。
庄高資は、宇喜多直家を頼って落延び、その後、宇喜多勢の支援を受けて、備中・松山城を奪還しています。

備中・松山城

なお、この記事にて取り上げている庄元祐(穂井田元祐)ですが、1566年に実の父・三村家親が、宇喜多秀家の刺客により殺害され、翌年の弔い合戦に、弟・三村元親の援軍として出陣しています。
しかし、明禅寺城の戦いにて、大敗を喫しています。

庄元資(庄元祐・穂井田元祐)の最後は、この明善寺合戦で討死したともされますが、他にも1568年に斉田城の戦いにて討死したともされます。
また、1575年の備中兵乱で、三村家に味方し、斉田城(佐井田城)にて討死したなど、諸説あり、よくわかっていません。


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なお、庄高資のほうも、1570年、毛利元清勢の援軍も受けたた三村元親勢の攻撃にて、庄高資は庄実近と討死したとも、三村家に暗殺されたともされます。
庄高資の子・庄勝資(しょう-かつすけ)は、佐井田城にて攻撃を受けましたが、植木秀資の支援によって撃退したようです。
ただし、庄勝資・植木秀長らは出雲に退却し、佐井田城も毛利家の手中に落ちました。

毛利元就の四男である毛利元清は、のちに猿掛城主となり穂井田元清と称します。
しかし、養子になったかどうかなどは定かでは無いようです。
毛利元清はのちに毛利氏に復し、その子・毛利秀元は長府藩の祖となりました。

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