本多忠真とは
本多忠真(ほんだ ただざね)は、戦国時代の武将で1531年、または1534年に誕生しました。
皆様、こんにちは。
2023年の大河ドラマは、松本潤さん主演。
徳川家康が主人公として描かれる、「どうする家康」です。
その徳川家康の家臣団の筆頭格である、徳川四天王には、
最年長の智将であり信康事件において織田信長に家康の嫡男の信康の所業を伝えた、酒井忠次。
幕末の大老、井伊直弼の先祖であり、その勇猛さから赤鬼と呼ばれた猛将、井伊直政。
あの戦国一の出世頭の豊臣秀吉に「この者の首を取った者には、10万石を与える」と言わしめた勇将、榊原康政。
生涯57の戦に参戦し、無傷で通した家康に過ぎたる者、本多忠勝。
という、乱世きってのエリートが名を連ねています。
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今回はその中で、最強とも言われる本多忠勝…の叔父である、本多忠真(ほんだただざね)についてご紹介していきます。
甥の窮地を救う!
本多忠真は享禄4年(1531)、或いは天文3年(1534)に誕生したと言われています。
父は、三河国の大名、松平広忠の家臣、本多忠豊であり、忠真はその次男として生を受けました。
同姓の鬼作左こと猛将、本多重次や、徳川家康を生涯に亘り、支え続けた徳川家の名参謀、本多正信は同じ本多一族でありますが、それほど深い付き合いをしていた訳ではなく、忠真の甥っ子である本多忠勝は、本多正信のことを毛嫌いしていたほどです。
忠真の前半生は遺されている資料が少なく、幼名や初陣と元服がいつなのかについてはよく分かっておりません。
ですが、主君である松平家のために懸命に奉公していたのは間違いないでしょう。
松平家の御為と日々邁進していた忠真に転機が訪れます。
天文14年(1545)に松平家と隣国である尾張国を本拠としていた織田家との間で行われた第二次安城合戦において、忠真の父である本多忠豊が、
その四年後の天文18年(1549)に行われた、第四次安城合戦において兄でありその時の本多家当主の本多忠高が相次いで討ち死にしてしまったのです。
当主を相次いで失った、本多家は本多忠高の忘れ形見である鍋之助(以下、本稿では本多忠勝で通します。)、後の本多忠勝を当主とし、叔父である本多忠真を後見として松平家のために仕えて参ります。
忠真は槍の名手であったため、当主である忠勝にコーチングしました。
後世に57戦無傷の名将として伝わる、本多忠勝に心身ともかなりの影響を与えたのは、叔父である本多忠真だったのです。
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永禄3年(1560)5月19日、今川義元と織田信長の間でした行われた、桶狭間の戦いの前哨戦である鷲津砦の攻防において甥の忠勝が初陣を迎え、忠真はその補佐として共に参戦します。
この当時は既に松平家の当主であった
松平広忠は暗殺されており、その息子の松平元康(後の徳川家康。以下、家康でいきます。)が跡を継いでいましたが今川家に人質となっており、今川家の一武将としてこの戦に参戦しておりました。
徳川家康はその家臣の本多忠勝、そして忠真は忸怩たる思いであったことでしょう。
忠勝は初陣であったため、気合いに満ち溢れていました。
ですが、深追いしすぎて敵の織田家の武将に危うく討ち取られそうになります。
忠勝、危うし。
そこに居合わせたのが叔父である、忠真。
なんと忠真は、甥の忠勝に迫る敵に対し、槍を投げつけます。
忠勝は九死に一生を得ました。
似たようなエピソードに古代中国の秦の王であった始皇帝(この当時は、政)が荊軻に暗殺されそうになった際、そばにいた御典医が薬の入った箱を投げつけたのに類似しています。
初陣で甥の忠勝を救った叔父の忠真。
忠真がいなければ、忠勝には今ほどの知名度を得ることはなかったでしょう。
死出の旗差物
本多忠真は、桶狭間の戦いの後も本多家当主、忠勝を支え、主君である徳川家康の合戦に数多く参戦していきました。
忠真や忠勝をはじめとする多くの家臣の功もあり、
三河国の一土豪に過ぎなかった松平家改め、徳川家は三河国だけでなく、東の隣国の遠江国も平らげ、急成長していました。それに対して人質となっていた今川家も桶狭間の戦いで当主の今川義元が討ち死にするとみるみるうちに衰退し、息子の今川氏真の代にはついに大名家として滅亡してしまいました。
このあたりは、正に盛者必衰であります。
(ここで平家物語関連の記事を載せて下さい)
織田信長との清洲同盟と家臣の支えもあり、二カ国の国主となった徳川家康率いる徳川家。
そんな徳川家に試練がやってきます。
元亀3年(1572)。甲斐、信濃、そして駿河国を治めていた名将、武田信玄が隣国の北条氏と甲相同盟を締結させると上洛を目的として、遠江国に攻め込んで参りました。
徳川家康からしてみれば、今川家の人質時代を乗り越え、多くの家臣の命を散らして手に入れた領国です。
そんな徳川家康の気持ちなど知ったことか!と、武田信玄を遠江国を蹂躙します。
徳川家康も指をくわえて見ているわけではなく、武田勢を挫こうと兵を出しますが止められませんでした。
そして、元亀三年(1572)12月22日。
遠江国の浜松城。ここには、三河国岡崎城から居を移していた徳川家康と同盟相手である、織田家から援軍として派遣されていた佐久間信盛や、本多忠真をはじめとする歴戦の徳川家臣団が緊張な面持ちで、名将武田信玄を迎え撃たんとしていました。
武田信玄率いる武田軍は総勢、27000。
徳川家康率いる徳川と佐久間信盛などの織田家からの援軍合わせて11000。
力の差は歴然としていました。
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浜松城に籠もる徳川家康や佐久間信盛、本多忠真などはこのまま籠城して、武田軍を食い止めようとします。
ですが、相手が悪すぎました。
武田信玄は浜松城から見える範囲まで到着すると浜松城には、目もくれずそのまま素通りし、その先にある三方ヶ原台地を目指し進軍を続けました。
この様子を見た徳川家康は、
「素通りされて黙っていられるか。素通りされるのを見ているくらいならわしは、刀を折り、武士を辞める!」と大激怒。
家臣の反対を押し切り、軍勢を率いて武田軍の後を追いかけます。
このまま後ろから襲いかかれば、勝てる。
家康の脳裏にはそれがよぎりましたが、これも信玄が絵を描いたとおりに進んでいるに過ぎないのでした。
武田勢は、突如反転。
攻撃態勢である魚鱗の陣を敷きます。
謀られたと悟った徳川軍。
そこからは武田軍の一方的な攻撃に終始します。
夏目吉信、鈴木久三郎、成瀬正義、中根正照などの徳川軍の武将、さらには織田家から援軍として参戦していた平手汎秀など並み居る武将が討ち死にを遂げ、総大将の徳川家康も絶体絶命の状況に陥っていました。
それを見ていた本多忠真。
忠真は味方の制止も聞かず、自ら殿(しんがり)を買って出て、三方ヶ原の台地に踏み止まります。
この時の忠真の心境はどういうモノだったのでしょうか。
本多忠真は一言、「ここから後へは、一歩も引かぬ」と旗差物を地面の両脇に指し、そのまま武田軍に突撃をかけ、二度と帰ってくることはありませんでした。
享年は39或いは、42と伝わります。
忠真らの決死の猛攻もあり、総大将の徳川家康は浜松城への帰還に成功します。
徳川家康の数少ない大敗北となった三方ヶ原の戦い。これがその内幕です。
エンディング
本多忠真の自己犠牲は、後の徳川幕府250年の礎となったでしょう。
後に忠真の亡骸は、嫡男である本多菊丸により三河国に葬られ、菊丸は出家したと言います。
そこからの菊丸の記録は途絶えています。
三方ヶ原の戦いの舞台となった静岡県浜松市にある犀ヶ崖資料館には、本多忠真を顕彰した石碑が建立されています。
この石碑の題字は表忠彰義之碑。
忠義を示したことを明らかにするという意味が込められた碑には、本多忠真や本多一族の徳川家への献身が記されています。
コロナ禍が明けたら、是非足を運んでみてはいかがですか。
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今回もご覧下さり、ありがとうございました。
では、次回もお楽しみに。ここまでお相手は、後藤弐式ショーイチでした。
(寄稿)リストクラッチ式ショーイチ
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