清正を圧倒した文武両道「谷衛友」の空鉄砲にスキはない

谷衛友

皆様、こんにちは。戦国時代、名だたる武将が生を受け、散っていきました。その戦国時代の中で信長、秀吉、徳川秀忠からその武勇を称賛されながら現代にその名があまり伝わっていない武将がいます。その武将の名は、谷衛友(たにもりとも)。豊臣政権下の大名で、江戸時代に丹波国山家藩主(たんばのくにやまがはんしゅ)となった武将です。現在、残っている肖像画を見る限り、あまり勇猛さは伝わってこないのが第一印象ですが見た目で判断するのは禁物です。

そんなあまり知られていない武将の魅力をご紹介してきます。
最後までお付き合い、よろしくお願いいたします。

永禄6年(1563)。谷衛友は美濃国の武将、谷衛好(たにもりよし)の三男として誕生しました。この谷氏の祖先は、古代日本の渡来人系一族、東漢氏(やまとのあやうじ)の末裔です。この一族で代表的な人物は、飛鳥時代蘇我馬子に仕え、後に崇峻天皇を馬子の命令により暗殺したものの、馬子の娘を略奪したため、滅ぼされた豪族、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)です。この他にも東漢氏の末裔とされるのは、平安時代の、桓武天皇による蝦夷(えみし)討伐で有名な征夷大将軍の坂上田村麻呂です。その後は諸説あり、不明な部分もありますが、どうやら宇多源氏佐々木氏流の一族でこの流れに則ると、南近江の戦国大名、六角氏とも先祖を同じくする一族でもあったようです。

谷衛好は、はじめは美濃斎藤氏に仕え、斎藤龍興の代で織田信長によって滅ぼされると衛好は信長に仕えます。この辺りは、戦国の習いと言えど、盛者必衰の理を表しています。
この衛好は試刀術という、刀の試し斬りの技術を編み出した元祖と言い、これは後に江戸幕府に仕えた谷衛友やその門人たちによって受け継がれ、弟子を多く輩出しその中からは江戸時代に代々、死骸の試し斬りや斬首の執行役となった首切り浅右衛門の名で有名な山田浅右衛門もいました。
戦国武将の中には意外な縁があるのはよくありますが、この谷氏も様々な縁を持っているのでびっくりしますね。
衛好は信長の命によって、羽柴秀吉の与力となり、その息子である衛友も、父とともに秀吉に仕えます。

衛友の父、衛好は秀吉に仕え、多くの合戦に従軍しました。この頃の秀吉と織田家は美濃攻略以後、室町幕府将軍足利義昭の上洛に伴う戦や、義昭、浅井朝倉氏との戦など、長年、方々に戦を抱えていたため武功をあげる機会といつ何時でも、命を落としてもおかしくない状況でありました。戦う父の背中を見て育ったであろう、衛友は織田家から毛利家へ寝返った、別所長治らが籠もる三木城を秀吉が攻めた三木合戦で初陣を果たします。この初陣の最中、大事件が起きます。劣勢の別所氏に援軍としてやってきた毛利軍の強襲により秀吉軍の陣地の一つを守っていた父、衛好が奮戦空しく討ち死にしてしまったのです。

この父の討ち死にに対して、衛友はただ指を咥えて見ているはずがありませんでした。なんと初陣であったのにも関わらず、その場で父を討った武将を討ち取り、父の骸を取り返すという武功を立てました。
仇討ちや、弔い合戦の例は洋の東西を問わず、数多ありますがその場でかたき討ちを成し遂げるというのはあまり聞いたことがないほど、珍しいものです。
この知らせを聞いた信長は父、衛好の死を悼むとともに衛友に対し、父の遺領の継承を許すとともに新たな知行と感状を与え、この功に報いたのでした。これだけでも優れた武将なのですが、ここからさらに活躍していくのです。

信長が本能寺の変明智光秀の謀反により横死し、その光秀を山崎の戦いで秀吉が討った後も衛友は秀吉に仕え、秀吉から丹波国何鹿郡山家村を与えられ、16000石の大名となりました。衛友もこの功に報いるため多くの戦に従軍することになりました。

天正11年(1583)正月から発生した織田家旧臣、滝川一益討伐や同年4月の柴田勝家を滅ぼした、賤ヶ岳の戦い、翌年に行われた、秀吉と家康の直接対決、小牧・長久手の戦いにも参陣。
天正13年(1585)の紀州征伐で発生した、千石堀城積善寺城攻めでは、自ら敵の首級をあげています。
さらには、天正15年(1587)に秀吉による島津攻め、九州征伐の中での豊前国岩石城(ぶぜんのくにがんじゃくじょう)攻略戦において、衛友は攻め方の武将の一人でありながらも我先にと、果敢に突撃していきました。ですが、目の前に衛友よりも先に攻めかからんとする兵士がいました。
この光景を目の当たりにした衛友は行動に出ました。なんと、この武者の草履をつかんで引き落とし、自らが城に一番乗りを果たし、敵の首級をあげたのでした。その光景を見た、敵方は衛友の勢いに辟易し、逃走。こうしてあえなく落城したのでした。
これを伝え聞いた秀吉は衛友の武功を大いに称賛したと言います。
衛友のこの行動と執念は、敵に回すと恐ろしい武将の一人で誰も彼もが知りすごみしても、おかしくないでしょう。

岩石城での活躍後に従五位下・出羽守を叙任された衛友の勢いと勇猛果敢さは衰えることなく天正18年(1590)の小田原征伐では伊豆山中城(いずやまなかじょう)。現在の静岡県三島市を攻めた戦でも功をあげ、続く朝鮮出兵。文禄の役でも配下450人を率いて渡海し、武功をあげ、秀吉から国光の刀を賜っています。これだけ武功をあげている衛友ですが、秀吉から働きを称賛されたり、刀を賜るなどはありますが、不思議なことに領地は加増されてません。同世代の福島正則加藤清正細川忠興などは、10万石以上の領地を授けられてますが、彼らと衛友とでは恐ろしい落差があります。

秀吉は、衛友のことを一人の武将としては評価していたと思いますが、領主としてはあまり評価していなかったのでしょうか。
よい武者は、よい為政者になるとは限らないとは言いますが、衛友もそれに当てはまるとしたら少しの悲哀を感じますね。
豊臣政権下の猛将として活躍し続けた衛友。ですが、情勢は太閤秀吉の死により、風雲急を告げます。

太閤秀吉死去後、衛友は形見分けとして釣切の脇差を受領しました。
ここでも武具を拝領してます。これも栄誉なことなので豊臣政権からいかに信頼されていたのかが伺えますね。
秀吉の後を継いだ、秀頼や補佐役の徳川家康前田利家の五大老、石田三成浅野長政などの五奉行によって盤石な体制のまま、天下は治まると思われましたが、事態は大きく揺らいでいきます。
かねてから正則や清正ら武断派と、三成ら文治派は仲が良くありませんでした。
そんな状況で正則や清正ら七人の武将は三成の屋敷を襲撃するという事件が発生し、家康が部三成を奉行から罷免したため家康と三成の間に大きな亀裂が入りました。
そして、会津の上杉の上洛拒否をめぐって家康は諸将とともに上杉征伐に乗り出し、三成はそれを好機とばかりに上方で挙兵したのでした。

この状況下で衛友は家康に協力することを誓い会津征伐への参陣を申し出ますが、畿内の警備が薄くなるのを口実に家康から待機を命じられます。そのタイミングで三成の西軍が挙兵したため、本心では家康方につきたかったのですが
上方の武将のほとんどが三成方についたため孤立するのを避けるために不本意ながらこれに従ったのでした。
衛友は、戦国の出木杉君こと、細川幽斎が籠城する丹後田辺城の攻略軍に加わりました。
ですが、衛友はあまり気が進みませんでした。衛友は先にも述べた通り、勇猛果敢な武将で尚且つ、歌道にも理解があり、田辺城を守る幽斎の弟子でもありました。
でも怪しげな行動をとったらいつ裏切者として処罰される可能性もあります。そこで、衛友は城兵を銃撃すると見せかけて空砲を放ったのでした。
この行動もあり、田辺城を攻めた西軍は2か月近く、釘付けになり関ヶ原では家康が大勝。
衛友は戦後に、空砲の件を報告した幽斎らの口添えもあり、家康から知行を安堵されたのでした。

戦後、衛友は丹波国山家藩主となり、慶長19年(1614)と20年(1615)に発生した大阪の陣に参陣し、そこでも敵に馬印を奪われながらも、家臣が奪還し、首級を9つ挙げ、秀忠から黄金を賜りました。
そんな衛友は家康、秀忠、家光と三大の将軍に仕え、晩年は御伽衆として仕え、寛永4年12月23日、病により65歳で、死去しました。

さて戦場では、勇猛果敢な武将として活躍した衛友ですが平時でも気位が高い者として有名で、ある時に清正に仕えていた浪人が奉公構を出され、衛友のもとにやってきました。衛友はその奉公構を解いてもらうよう、立会人として細川忠興を伴い、清正の屋敷にやってきました。清正が現れると衛友は単刀直入に奉公構を解くように言いました。
ですが、清正は相手にせず、「その馬鹿の言うことは嘘だから捨て置け。」と少々、荒っぽく言いました。
これには衛友も激怒し、清正に詰め寄り、膝に手を置き、脇差に手をかけながら「清正。俺を誰だと思って、今の発言をしたのか。」と言いました。
この様子を見ていた忠興は、すぐに馬鹿というのは浪人のことであり、衛友のことではない。ということを説明し、事なきを得、その後、衛友は浪人の奉公構を解除させることに成功したと言います。
このように誰に対しても、臆することのない衛友の治めた山家藩は明治維新まで命脈を保ち、その血脈は天皇家にも流れていったのでした。

いかがでしたでしょうか。
今回は戦国を誇り高く生き抜いた武将、谷衛友についてご紹介しました。
最後までご覧下さりありがとうございました。
お相手は、ミリオンダラーマン テッド・ショーイチでした。
次回もお楽しみに。

(寄稿)リストクラッチ式ショーイチ

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