里見義頼とは
里見義頼(さとみ-よしより)は、安房の戦国大名・里見義堯の子として1543年に生まれました。
母が不詳と言うよりは諸説があり良くわかっていないことからも、里見義弘の庶長子とする説もありますが、いずれにせよ、子がいなかった長兄・里見義弘の養子となります。
しかし、1570年に里見義弘の子・梅王丸(里見義重)が誕生すると、里見義弘は安房を里見義頼に与えて、家督と上総は嫡男・梅王丸(里見義重)に与えると決定します。
この事から、里見家は混乱を招き、里見義頼は養父・里見義弘と意見が食い違うようになります。
1577年、里見義弘が小田原城主・北条氏政と和睦すると、北条氏政の娘・鶴姫が里見義頼に嫁ぎました。
しかし、2年後に鶴姫が死去したため、改めて北条氏政の妹・菊姫を継室に迎えています。
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1578年に里見義弘が久留里城にて急死すると、正木憲時・加藤信景ら上総の重臣がまだ9歳の梅王丸に家督を継承させました。
これに反発した、里見義頼や正木頼忠ら安房の家臣らは、誰も葬儀に参加しないという事態に陥っています。
そして、重臣・正木憲時は、北条氏政に寝返るなどの謀反があり、本拠の安房・岡本城だけでは危ないと、安房・館山城の築城も開始しました。
そして、里見義頼は館山城に移ると里見家と長年敵対してきた北条氏政に支援を求めました。
正木憲時が里見家に対して謀反を起こしたと言う名目で、1580年4月に正木頼忠らと兵を挙げると、大多喜城(小田喜城)を攻めました。
加藤信景の佐貫城にいた梅王丸は出家を条件に降伏すると、淳泰と称して館山の泉慶院・住持となり、里見家の系図からは抹消されています。
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こうして上総を制圧した里見義頼ですが、1581年には正木憲時と太田康資が家臣に殺害されていることから、暗殺を指示したものと推測されています。
また、常陸の佐竹義重が甲斐の武田勝頼と同盟すると、里見義頼も武田家と同盟し、・小弓公方の足利頼淳を支援しました。
しかし、1582年には武田家も滅亡し、継室である北条氏康の娘・菊姫も死去すると、再び小田原城主・北条氏直と対立したため、豊臣秀吉に臣従する姿勢を見せるなど外交手腕を発揮しています。
里見義康とは
1587年10月26日に里見義頼が岡本城にて死去すると、側室・龍雲院(正木時茂の娘)が1573年に産んでいた嫡男・里見義康(さとみ-よしやす)が家督を継ぎました。
ちなみに、この里見義康の正室は織田信長の姪です。
里見義康は増田長盛を通じて豊臣秀吉に臣従し、所領安堵を受けています。
しかし、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、里見義康は御弓公方・足利頼淳のためにと「鎌倉」を奪還して、鎌倉公方に擁立しようと試み、三浦半島へ軍を進めました。
そのため、小田原城に馳せ参じなかっただけでなく、惣無事令に違反したとされて、上総を没収されて安房一国(4万石)にと減封されています。
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これまでは、単なる遅参により減封されたものとされていましたが、北条家の窮地に付け込んで、三浦に侵攻したようで、独自に「鎌倉公方家を再興する」と禁制を発した事から、これを咎められたと考えられています。
そして、1591年、館山城を改修し、城下町を整備しました。
1592年、朝鮮攻めの際、里見義康は徳川家康ともに九州へ行き、肥前・名護屋城にて滞陣しました。
1597年、太閤検地の結果、石高が9万1千石になっていますので、館山城は9万石として記載されるケースもあります。
1600年、関ヶ原の戦いの際には、徳川勢に従って会津征伐に向かいましたが、石田三成挙兵の知らせが届いた後は、結城秀康に協力して宇都宮城を守備しました。
中山道を進む徳川秀忠への同行を嘆願しましたが、許可されなかったともありますが、戦後の論功行賞では常陸・鹿島郡3万石が加増されて約12万石となっています。
なお、里見義康の弟・里見忠重も上野・板鼻藩1万石の大名に取り立てられています。
このように館山藩の礎を築いた里見義康でしたが、1603年11月16日に死去しました。
その後は、10歳の嫡男・梅鶴丸(里見忠義)が跡を継いでいます。
1606年に、徳川秀忠の前で元服した里見忠義は、大久保忠常の娘を正室に迎えましたが、外様大名としては江戸城からも近い為、一転して不運な道を辿る事になります。
大久保忠常の娘が正室であったことから、1614年、大久保忠隣の失脚事件に連座し、里見忠義は江戸城への登城禁止となります。
そして、安房・館山城は召し上げらられて、鹿島郡3万石のみと減封となります。
更には山陰の伯耆・倉吉藩3万石へと転封となり、先祖伝来の地をあとにしました。
倉吉へは堀江頼忠(堀江能登守頼忠)、正木時茂(正木大膳亮時茂)、板倉昌察(牛洗斎)ら僅かな重臣や家臣が従っています。
そして、倉吉に到着してみると、引き渡された所領は4000石に過ぎず、1617年にはその4000石も取り上げられ、鳥取藩主・池田光政の預かりとなり、百人扶持にまで落ちぶれました。
このように事実上の流刑に等しい状況でしたが、それだけに留まりません。
里見忠義には3人の男子がいましたが、いずれも側室が産んだ子だったことからか「嗣子がいない」とされ、29歳の若さで死去したあとの家督相続が許されず、大名家としての里見家は滅亡するに至りました。
倉吉の大岳院には、里見忠義・板倉昌察・正木時茂らの墓があります。
里見忠義が亡くなった際に、殉死したとされる家臣が8名おり、倉吉の大岳院に8人の墓があります。
戒名には「賢」の字が共通して入っていることから「八賢士」と称され、倉吉から分骨した墓も、館山城の東側山麓にあると言う事になります。
滝沢馬琴の里見八犬伝は、彼らの名を借りた小説と言う事ですね。
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ちなみに、関ヶ原のあと1万石を与えられていた上野・板鼻藩主である里見忠重も1613年に職務怠慢を理由に改易されています。
なお、里見忠義が去ったあとの館山城は佐貫藩主・内藤政長が受け取ったあと、徳川幕府の管理下となり、安房・館山城は破却されました。
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