土屋昌続(土屋昌次)とは
土屋昌続(土屋昌次、土屋右衛門尉、つちやまさつぐ)は、金丸虎義の次男として、戦国時代の1544年に生まれた。
父・金丸虎義は、武田家の一門衆であり、使番12人衆の中から武田信玄の守役に登用された武将で、秋山姓も称していた。
兄に金丸昌直、弟に秋山昌詮、秋山定光、土屋昌恒、金丸正直、秋山親久がらがいる。
下記写真は、躑躅ヶ崎館(武田氏館)近くにある土屋昌次屋敷跡。
なお、兄・金丸昌直(かねまるまさなお、金丸平三郎、1540年-1560年)は武田信玄の奥近習として三枝昌貞(三枝守友)、曽根昌世、武藤喜兵衛(真田昌幸)、甘利昌忠、長坂昌国らと仕え、横目役となったが、同僚の落合彦介の暴言を報告すると、それがもとで落合彦介の母が獄死し、恨みを買いに落合彦介に殺害された。
武田24将でもある土屋昌続(土屋昌次)は、1561年の川中島の戦い(第4回)が初陣とされ、17歳だったが、この頃はまだ金丸平八郎と称していたようだ。
その1561年の川中島の戦いは上杉謙信と最大の激戦となった戦いで、その時、武田信玄の側を離れずに警護した功を認められて、桓武平氏三浦氏流の相模・土屋姓を名乗るように命じられたとされる。
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1567年8月、武田義信事件が起こった際、武田信玄が家臣らに求めた下之郷起請文において、担当奉行であった浅利信種、吉田信生以外の宛先として、山県昌景や原昌胤、跡部勝資や曽根虎長、甘利信忠らとともに土屋昌続(土屋昌次)も取次を務めるなど、武田信玄の側近・奉行としての行動が多い。
そして、1568年頃から、土屋昌続(土屋右衛門尉昌次)と言う名が見られ始めている。
1568年末の駿河侵攻の際には、武田信玄の側近として戦時禁制や朱印状奏者を、ほぼ1人で行っており、駿河富士山本宮浅間大社や岡部氏、朝倉氏、狩野氏、松木氏などの駿河国衆との取次に尽力した。
また、西上野侵攻においても跡部勝資、原昌胤、曽根虎長とともに上野国衆との取次を務めており、土屋昌続は浦野氏や和田氏を担当した他、信濃においては玉井氏、市川氏、海野氏ら東信国衆との取次も担当している。
また、太田氏や梶原氏、里見氏など関東方面の外交も担当。
1569年、三増峠の戦いで箕輪城主・浅利信種が討死すると、浅利同心衆は土屋昌続の配下に加わり、100騎の侍大将に抜擢された。
土屋昌続(土屋昌次)の旗印は黒地に白の鳥居。
三方ヶ原の戦いでは、徳川16神将の1人・鳥居忠広(鳥居信之、鳥井四郎右衛門)と一騎打ちをし、首級を挙げている。
武田信玄が死去した際には、殉死しようとしたが、高坂昌信の説得を受けると、武田信玄の遺骨を甲府に持ち帰り、躑躅ケ崎館付近にあった自分の屋敷の庭先に埋葬した。
現在、その地が、甲府での武田信玄の墓所となっている。
1576年5月の長篠の戦いでは、織田勢の三重柵の2重まで突破したが、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉重継らと討死した。31歳。
法名は昌次院殿忠屋知真大居士。
以後は、弟の土屋昌恒が土屋家を継ぎ、天目山の戦いで武田勝頼が討死する最後まで忠義を貫いている。
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