宇都宮朝房(城井朝房)(きいともふさ)は、1571年、豊前国の戦国大名で城井谷城主・宇都宮鎮房(城井鎮房)の子として生まれた。
母は正室である大友義鑑の娘と推定される。
父・宇都宮鎮房(城井鎮房)は、初め大友宗麟に属していたが、耳川の戦いで大友宗麟大敗し、その後衰退すると薩摩の島津義久に属した。
1586年、宇都宮鎮房(城井鎮房)・宇都宮朝房(城井朝房)の親子は、高橋紹運の岩屋城攻めに、島津勢として参戦している。
1587年、豊臣秀吉による九州征伐が始まると、父・宇都宮鎮房(城井鎮房)の命で島津勢を見限り、豊臣勢に属して、秋月種実の岩石城を先鋒として攻撃したが、この時は僅かな手勢しか率いていなかったにも関わらず武功を挙げたと伝わる。
戦後、豊臣秀吉から伊予に加増転封の朱印状を与えられたが、宇都宮鎮房(城井鎮房)・宇都宮朝房(城井朝房)の父子は、父祖伝来の豊前における所領を希望して朱印状を返上。
その為、1587年秋から豊前6郡の領主となった黒田官兵衛・黒田長政の父子と抗争に発展した。
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天険の要塞である城井谷城にて挙兵した宇都宮朝房(城井朝房)らは少ない兵力ながらも善戦し、攻め込んできた黒田長政を撃退することにも成功。
しかし、黒田家は包囲戦に持ち込んだダメ、兵糧も底をつき、父・宇都宮鎮房(城井鎮房)は安国寺恵瓊を仲介に、13歳になる娘・鶴姫を人質とする条件にて和睦した。
1588年、宇都宮朝房(城井朝房)は、肥後で起こった国人一揆の鎮圧を命じられて、黒田官兵衛と共に出陣。
1588年4月20日、父・宇都宮鎮房は黒田長政に招かれて入った中津城で、酒宴の席で謀殺された。
その後、城井谷城も黒田長政が攻撃して陥落させ、祖父・宇都宮長房らも討死し、捕捉された一族も処刑された。
1589年4月23日、宇都宮鎮房(城井鎮房)を暗殺したとの知らせが肥後へ出張中の黒田官兵衛に届くと、黒田官兵衛と加藤清正は肥後国木の葉にて宇都宮朝房(城井朝房)の宿舎に火を付けた為、宇都宮朝房(城井朝房)は従者と共に切腹した。
宇都宮朝房(城井朝房)は黒田官兵衛に呪いの言葉を残して死んだと伝わる。
宇都宮朝房の死後、懐妊していた妻・竜子は、城井谷城から脱出することに成功し、英彦山の南の宝珠山村で男子を出産。
この男子は竜子の実家である秋月種実に引き取られ、宇都宮朝末と名乗り、お家再興に奔走したと言う。
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