碓井姫とは~家康の叔母にして酒井忠次の妻となった松平氏の姫君

太田先生

碓井姫

本項の主人公である碓井姫(うすいひめ)は、享禄2年(1528年)に岡崎城主・松平清康と、その妻である華陽院(名は於富ないしは於満とも)の娘として生を享けました。彼女は実名を於久と言い、光樹夫人、吉田殿と言った別名を持ちますが、本項では碓井姫で統一します。

母である華陽院は清康と再婚する前に水野忠正の妻となって於大の方を産んでおり、碓井姫は於大にとって父違いの妹にあたり、於大の子である徳川家康から見ると彼女は父方の叔母です。

碓井姫は松平政忠と結婚し、天文15年(1546年)に彼との間に松平康忠を儲けていますが、4年後の桶狭間の戦いで忠政が戦死したことで死別します。息子の康忠は祖父である松平親広を後見人とする一方、彼女は我が子と離別して甥にあたる家康の家臣・酒井忠次に嫁ぎました。

吉田殿と言う別名は忠次に嫁ぎ、夫が平定した参州(三河)の三河・吉田城に住むようになったことが由来と言われており、永禄7年(1564年)に嫡男の家次、永禄12年(1569年)には本多忠次の養子となった本多康俊を産んでいます。


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天正16年(1588年)には忠次が京都の桜井屋敷を住まいとして隠居、家次が後継者となりますが、碓井姫は家次が甥の家康とともに関東入りした際に随行しました。この時に下総国碓井城(千葉県)と3万石を家継が拝領しており、これが碓井姫と言う名の由来と言われています。その折に三河大樹寺の16世慶円和尚を招聘して同地に大信寺を開き、この寺は後に家継が上野国高崎(群馬県)に移されても移されます。

京都に在住していた忠次が慶長元年(1596年)に京都で亡くなると彼は知恩院(京都府東山区)に葬られますが、碓井姫は京都で夫を弔うことよりも関東の家継の庇護下で過ごし続けました。夫と離れていたのは不仲になる何かしらの出来事があったのか、それとも当主である息子やその主君で自らの甥でもある家康に仕えることを望んだのか、その真相は定かではありません。

慶長9年(1604年)に家継は高崎藩に移封され、彼女も開いた大信寺と共に同伴して高崎に赴き、その8年後に享年77歳で死去します。光樹院殿宗月丸心大禅定尼の法名が贈られました。その墓所は諸説があり、夫と同じ京都の知恩院、三河の宝蔵寺、或いは酒井家が開いた大信寺と言われ、はっきりしていません。

その後、家継の長男に当たる酒井忠勝すなわち碓井姫の孫が越後高田藩、信濃松代藩を経て出羽庄内藩に移封された際、大信寺と名を替えていた大督寺も庄内藩に移されることになり、彼女も庄内に改葬された際に大督寺光誉窓月の法名を贈られました(大督寺への名は碓井姫死去の際に行われたとの説もあり)。

松平の姫として生まれながらも桶狭間で夫を失う悲劇に見舞われた碓井姫でしたが、二番目の夫である酒井忠次と結ばれたことで運命を好転させ、彼女が生み育てた子供達や孫は関東各地の大名、そして東北の大藩のひとつである庄内の藩主として足跡を残し、その血筋は幕末の動乱を乗り越え、今も残り続けています。


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余談ではありますが、今年2022年が庄内藩に酒井氏が入部して400年の記念すべき節目の年です。酒井氏のおひざ元であった庄内地方に生まれ育った者として、その繁栄に貢献した女性についての記事を執筆できた縁に深く感謝しつつ、筆をおかせて頂きたいと思います。

参考サイト

歴史エッセイ ─庄内藩の女性たち─~序章  酒井忠次公正室 吉田殿

庄内藩 酒井家の歴史

歴史に見る鶴岡のむかしむかし

(寄稿)太田

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