山中長俊(やまなか-ながとし)は、山中為俊の子として1547年に生まれた。
この山中家は、甲賀二十一家である山中氏の庶流・柏木三家の一角だったが、甲賀流忍家の筆頭格であり、六角義賢に仕えた。
学問や文芸に明るい教養人であり、甲賀忍者の中でもまれに見る出世を果たしたと言えよう。
1568年9月、織田信長が六角義賢の観音寺城を攻め落とすと、山中長俊らが甲賀・石部城にて六角義賢を保護し、近江六人衆の一人とされた。
1573年9月に佐久間信盛らが石部城を攻めた際には籠城し、林寺熊之介を討ち取るなど、六角義賢から感状を受けた。
1574年、再び佐久間信盛らが石部城を攻めると、六角義賢・六角義治は脱出し、石部城は陥落した。
そのため、山中長俊は以後、織田信長に臣従し、3000石を与えられて柴田勝家の家老として鉄砲同心五十人を預かり、河田長親の調略などの功をあげている。
本能寺の変、清洲会議を経て勃発した、1583年の賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家とお市の方が自害したあとは、丹羽長秀に仕えた。
1584年の小牧・長久手の戦いには、丹羽長重の補佐として出陣している。
その丹羽長秀も死去したあとは、丹羽長重が内応の疑いが掛かり没落したため、佐和山城主・堀秀政に寄食している。
そんな堀秀政の紹介もあり、1585年、右筆として豊臣秀吉に6000石で召し抱えられると、1590年の小田原攻めや奥州仕置などにも従軍し、外交折衝などで活躍した。
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1592年、文禄の役では肥前・名護屋城に詰めて豊臣秀吉を補佐。
1593年以降は、豊臣家蔵入地の越前・北袋銀山の代官、筑前・蔵入地の代官などを歴任し、1593年9月に100石を加増され、山城守に叙任されたばかりか、豊臣姓を下賜された。
1595年には、1万石に加増されて大名に列しているが、所領は摂津・西三郡、河内・中部、近江、伊勢と分散しており、基本的には豊臣直轄地の代官であったため、領地には赴いていない。
その後、畿内の太閤蔵入地3万石の代官にも就任している。
1598年3月15日の醍醐の花見では、警備を担当した。
なお、豊臣秀吉の命により「太平記」の続書として長編歴史書となる「中古日本治乱記」の執筆を開始。
1362年から1597年まで執筆したところで、豊臣秀吉が死去したが、のちに隠棲した際に、太田資方の勧めもあり、関ヶ原の戦いの終結まで執筆し完成させた。
1600年、石田三成の関ヶ原の戦いでは、大阪城留守居・守備を担っていた流れで、そのまま西軍に加担することとなり、大坂城周辺にて守備した。
そのため、戦後には改易となって、徳川家より微禄を与えられるも京に隠棲。
1607年2月24日、京都にて死去した。享年61。
墓は大津市の西教寺。
なお、山中長俊の孫・山中幸俊(山中信俊の子)は、豊臣秀頼に仕えて大坂の陣に参加している。
豊臣氏滅亡後は浅野長晟に仕え、その子孫は広島藩士となった。
なお、山中信俊の次男・山中宗俊は、徳川家康に仕えたため、1609年に1000石を賜って旗本となっている。
そして、大坂の役では永井直勝に属して参陣し、子孫は旗本として存続している。
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