藤原泰衡(ふじわら-の-やすひら)は、久寿2年(1155年)もしくは長寛3年(1165年)に奥州藤原氏(平泉政権)の3代目当主・秀衡と徳尼公(藤原基成の娘)の間に生まれました。
彼は次男でありましたが、正室を母に持つため嫡男として『母太郎』『当腹太郎』と呼ばれていたと言われています。
名君の誉れ高い父秀衡の下で後継者として励んでいた泰衡でしたが、その運命に陰りが見えたのは文治3年(1187年)に秀衡が亡くなった時でした。
その頃、西国では精強を誇った平家が滅亡し、その平家打倒の立役者であった源頼朝と源義経の兄弟間で対立が悪化していました。
調略に失敗した義経はかつて身を寄せた平泉政権に亡命し、秀衡も奥州支配を企む頼朝との決戦を懸念しており、泰衡と国衡、義経の3名に後事を託しました。
義経を大将軍として軍務を委任させよと言う遺言は有名で、泰衡は藤原の嫡男として政治を行うこととなります。
なお、国衡は『兄弟ならば対立するが親子ならばそれがない』との理由で泰衡の生母を妻として迎えるよう父に命じられ、泰衡は兄と義理の父子になったのです。
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この三者が団結したことで奥州は盤石…と思われましたが、頼朝と彼に同意する朝廷は執拗に調略の手を伸ばします。
文治4年(1188年)、朝廷からは宣旨が泰衡と彼の外祖父である基成に出され、不安定な情勢の下で泰衡は末弟の頼衡(一節には父方の祖母をも)を誅殺したと『尊卑分脈』に記されています。
それでも泰衡と義経の団結は揺らぎませんでしたが、朝廷から自らを討つ宣旨が出されるなど圧力を受けたのに屈した泰衡は文治5年閏4月30日(1189年6月15日)に衣川館に起居していた義経を襲い、自害させたのでした。
この時、義経の妻子と家臣の武蔵坊弁慶も犠牲になり、これで平泉政権の危機は去ったかに見えました。
しかし、頼朝は義経を許可なく殺したことや彼をこれまで匿った罪などで泰衡を討伐するための軍を興し、全国に動員令を出します。
意気上がる鎌倉幕府軍に対して平泉政権は混迷を極め、義経に同意したとして泰衡は弟の忠衡と通衡を殺害するなど内訌が絶えませんでした。
同年の8月に起きた阿津賀志山(福島県)の戦いで国衡が奮戦するも、頼朝が率いる幕府軍を止めきれず、国衡は戦死しました。
不利を悟った泰衡は平泉に火を付けて退却、頼朝は8月22日に平泉を制圧します。26日に頼朝に和睦を乞う文書を届けるものの、それは無視されて泰衡追討の軍が差し向けられたのです。
本拠地を守り切れなかった泰衡は、最後の希望をかけて蝦夷地(北海道)へ逃れようと比内郡(秋田市)の郎党である河田次郎を頼りますが、次郎は泰衡を裏切って殺害します。
その首級は前九年の役で源頼義が安倍貞任を晒したのになぞらえ、眉間に釘を打って柱にかけられ、奥州藤原氏は滅亡しました。
後に、泰衡の首級は近親者によってミイラとして蓮の種と共に秀衡を葬った中尊寺金色堂の金棺の傍に安置されます。
弟の忠衡(もしくは高祖父の経清)だという伝承もありましたが調査の結果、泰衡のものだと判明しました。
後世、人気の高い義経に敵対した裏切り行為で泰衡は嫌われること甚だしく、英雄頼朝に刃向った無能な武将として『吾妻鑑』でも低評価です。
一方、秋田市に彼を哀れんだ地元民によって祀られた錦神社と、泰衡の妻を祀った西木戸神社が現存しています。
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また、泰衡から多大なる恩顧を賜った家臣が藤原を名乗って住まったとされる地が東北各地に点在し、秀衡の子らしく善政を敷いた伝承が存在するなど、泰衡には地元民にとっての英雄としての側面も存在します。
大河ドラマ『炎立つ』では、渡辺謙さんによって従来の悪人・愚物としてでは無く、平和と正義を愛するヒーローとしての泰衡像が広く認知されました。
泰衡の首級が入っていた首桶から発見された蓮は平成12年(2000年)に開花し、今では中尊寺蓮として同寺の池で栽培され、彼が葛藤しつつも守ろうとした奥州を今も見守りながら咲き続けています。
(寄稿)太田
・藤原秀衡とは~平泉政権の黄金期を築いた三代目~
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・藤原清衡とは~後三年の役を経て台頭した奥州藤原氏の初代~
・金色堂を初めとする世界遺産奥州平泉「中尊寺」の寺院みどころ
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