源頼朝は武士政治の先駆者ではない!?新政権を作らざるを得なかった事情

源頼朝

義務教育でもお馴染みの源頼朝といえば、武家政権の先駆者として有名です。
要するに、それまで日本列島全体の政治行政権を握っていた平安京の貴族と距離を置き、頼朝をトップとする新政権を関東地方やその周辺に樹立したということです。
さらに、政権樹立のメンバーがそれまでの平安京政治と違い、日本列島全体の政治行政方針を決めることを主な仕事とする偉い貴族でなく、農業等事業の指揮、軍隊や警察の指揮、土木工事の指揮等を執る現場リーダーである武士が中心であることで、庶民による革命だとまで言われることもあります。

また、頼朝は、新しい政治行政体制を盤石にするため、強い組織を作ろうと奔走します。
そのために、平安京の朝廷を出し抜いたり、だけど時に院を中心とする朝廷に出し抜かれたり、でもそれを逆に利用して守護や地頭といった新政権を支える役人を日本列島に設置したり…。
その見事な政治手腕も、頼朝の魅力の一つでしょう。


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ところが、その頼朝も、はじめから朝廷を凌ぐような強い組織を作ろうとしていたかと考えると疑問です。
また、当時の東国武士たちの直面していた領土問題を考えると、武家政権という構想は、頼朝が日本史上初めて思いついたものとは言いきれないでしょう。
そしてその領土問題を考えた時、当時の平安京を独占していた日本列島の絶対的支配者平氏との戦いという無謀な挑戦に多くの東国武士参加した理由も見いだせます。
本記事では、当時の東国武士たちが直面していた切迫した領土問題を切り口に、日本初の武家の政権樹立を頼朝のトップダウンの指揮で捉えるのでなく、東国あちこちの農村の悲鳴から武家政権を樹立せざるを得なかったボトムアップの論点で見ていきます。

奈良時代平安時代の土地制度と武士の登場

まずは、朝廷政治の土地制度つまり奈良時代平安時代の土地制度を見ていきます。
いつの時代も、庶民は産業を行い、その収益で生計を立てつつ、収益の一部を税として政治行政機関に払うことで、政治行政機関は成り立っています(朝廷は当時の政治行政機関)。
当時の中心産業は米農業で、米農業をたくさん行うためには、たくさんの土地が必要です。
よって、土地制度を見ていくことは当時の中心産業を見ていくことであり、庶民の生計、政治行政機関を成り立たせる基盤を見ていくことなります。
以下の話しに重要なことですので、源頼朝のお話に入る前に見ていきたいと思います。

朝廷政治の確立した奈良時代当初、当時の中心産業である米農業を朝廷が独占するように、日本列島全ての土地は日本列島で最も偉い天皇とその取り巻きである朝廷のものでした。
庶民たちは、朝廷のものである日本列島で暮らす限り、朝廷のために土地を耕さないとならず、強制的に土地を貸し与えられ、耕し、収穫の内の何割かを朝廷に納める仕組みでした。
また、日本列島は天皇と朝廷のものなので、庶民に米が余った場合も没収されたりする等、あらゆる財産は認められませんでした。
ところが、そうした決まり事は、奈良時代の内に機能しなくなります。
土地を耕して何割かを税として納めるだけでも厳しそうですが、余った米等も財産として所有できないので土地をよりたくさん耕そうというやる気も出ないし、土木工事や兵役等労働税もあり厳しすぎるため、強制的に与えられた土地から逃亡するようになったのです。
朝廷は庶民の払う税で成り立っているわけですから、庶民が土地を耕さずに逃亡するというのは困ります。
また、日本列島には雑木林等の荒れ地もたくさんあり、耕して田畑にできれば、朝廷の税収アップになります。
そうしたことから、墾田永年私財法を出します。
これは、自分で耕した土地は自分のものにしてもいいという法律です。
この新制度により、庶民が農地から逃亡せず農業をじっくり行うこと、荒れ地を耕すことにつながっていきました。


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庶民にも色々いて、家来を持つ有力庶民もいます。
家来を持つ有力庶民や朝廷の貴族たちは特に、土地開発を行い自分の土地を増やしていきました。
朝廷は、日本列島は朝廷のものだと言っていましたが、このように庶民や朝廷に勤める貴族たちが土地所有して問題ないかといえば、大丈夫です。
この時代、土地開発した地で収穫された米も、何割かちゃんと税として朝廷に納める決まりだったのです。
ところが、奈良時代も明けて平安時代も中期になると様子が変わります。
この頃になると、朝廷に勤める貴族たちの中で、藤原氏とその一族がそれ以外の氏たちを排除し、朝廷の要職を独占するようになります。
朝廷は日本列島の政治行政方針を決める国家機関ですが、藤原氏がその要職を独占すると、自分の土地に都合いいルールを作るようになります。
例えば、朝廷に納める税を免除したり、土地から実際に税を徴収する国司(こくし・朝廷に勤める役人で、一般的には貴族の中で身分の低い者が就く)の立ち入りを禁止したり。
有力庶民たちは、自分の土地も税を免除してほしくなり、税を免除された藤原氏の土地ということにするようになります。
その代わり藤原氏に対して名義使用料とも言える一定の税を納めないといけませんけど、それは朝廷に税を払うより安いですから、藤原氏の土地にする者が増えてきます。
また、藤原氏としても日本列島あちこちから名義使用料を得られるので、両者お得ということです。
一方で、日本列島中あちこち土地開発されて私有地化されているこの時代ですが、国家の土地だってまだ残っています。
国家の土地を国衙領といい、私有地化された土地を荘園と呼びます。
当時の日本列島は、現在の都道府県程の広さで区分され、一つ一つを国と言い、平安京より派遣された役人である国司によって管理されます。
国司は基本的に平安京の偉い貴族の部下で、平安京では出世できない人が多いです。
また、平安京の偉い貴族の決めた政治行政方針を日本列島あちこちで実行するのもこの国司の役割の一つです。
今回の話しで言うなら、米等の税を実際に徴収するのは、国司の役割です(税の種類によっては、国司でなく直接平安京が徴収するものもある)。
国司は、担当する国の土地の内国衙領は国家の土地なので税を集めやすいですが、荘園からは、平安京の偉い貴族であり自分の上司である土地でない限りは国司の裁量で集められたり集められなかったりしていました。
強い国司の中には、武力で脅して荘園から税を集めたり、荘園を国衙領に組み込んだりする者だっていたようです。


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有力庶民は、自分の荘園を国司に取られたくないために、有力庶民をトップにその下で農作業をする家来の農民たちとともに武装をするようになります。
それ以外にも、土地開発をする内に隣の荘園と接近し、どこまでが自分の土地かでもめたりした時、話しがまとまらない場合武力で解決したり防衛したりするためにも武装します。
理由は色々ですが、荘園を守るために武装した庶民が、後の下っ端武士になったとされます。
いうなら、荘園防衛のための自警団が下っ端武士の起源の一つとされています。
加えて重要なのは、仲のいい荘園どうし協力するようになったことです。
戦いになった時、基本的には兵隊の数が多い方が強いですよね。
一つの荘園の自警団では守り切れないものも、仲のいい自警団どうし協力して守るようになるのです。
それで、その荘園どうしの連合で、最も強い荘園リーダーあたりがその荘園連合の指揮官になります。
その荘園連合で守り切れないものがあれば、荘園連合どうしでさらに連合するようになります。
その時は、連合の連合に参加した荘園の中で最も強い者がリーダーになります。
また、荘園を連合して守るだけでなく、さらなる土地拡大が必要な場合、この連合の力で土地を奪ったりするようになります。
この荘園連合の連合の場合、総指揮官が荘園連合のさらに連合のリーダーで、荘園連合のリーダーはその下の中くらいの指揮官としており、その下に末端の荘園リーダーが家来の農民たちをひきつれているというスタイルになります。
こうして、個々荘園の自警団が、互いを助け合うため連合をして、そのたびに階層的な指揮官が登場します。
こうしたつながりを、武士団といいます。


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こうした動きは、平安京から遠く朝廷の目の届きにくい東国で特に活発でした。
目の届きにくいということは、違法に土地を奪うこともやりやすいし、それなら防衛も強化しないといけませんよね。
さらに、関東地方は広くて未開の土地もたくさんあったため、土地開発の段階で争うことも多々ありました。
先程は、国司を荘園の税を奪う荘園の敵と書きましたが、そうとばかりではありません。
こうしてたくさんの荘園が連合する中、強い荘園があれば連合荘園のリーダーは、その荘園でいいでしょう。
ですが、実力差がない荘園どうしの連合なら、誰がリーダーをすればいいでしょう?「誰がリーダーになるかを巡った争い」が起これば、互いを守りあうために連合しようというのに、本末転倒です。
また、ただ自警団の力を寄せ集めるだけでなく、それぞれの荘園の財産を一手に税として集めて、税の使い道を決められるリーダーが現れる程の荘園連合になれば、誰がリーダーをするかは一筋縄ではいかないでしょう。
そこでリーダーに選ばれたのが、国司やその一族たちでもあるのです。
この時代の国司の中には、派遣された国内で武装した荘園どうしの争いを鎮める役割を買って出たりして、人望が集まっている者もいました。
さらに、何といっても家柄がいいのです。
現代では実感が湧きませんが、当時は身分社会です。
有力庶民は、どんなに努力しても国司のトップである守(かみ)にはなれません。
また、その国内にいる有力庶民たちの多数が国司に敬意を持っているし、有力庶民自身それを解っているでしょうから、国司をリーダーにすれば文句なく収まりやすいのです。
ただ、話しはそんなに単純ではなく、国司自身だけでなく国司の一族だって身分はいいです。
また、国司になるような者は、たしかにその国では偉いのですが、基本的に平安京では出世できない者たちです。
平安京に戻ってもいいことはないし、地方でこうして名実ともにリーダーになると、その地に留まることも多々あります。
すると、国司一族はそこで繁栄して親戚も増えていきます。
国司にたくさんの一族がいる中、誰がその地のリーダーになるのか、国司一族で複雑な争いになります。
いずれにせよ、こうして、荘園が武装する、武装した荘園が連合する、連合した荘園どうしでさらに連合する、その段階ごとにリーダーがいるという武士団が平安時代に出現し、そのまま、平安時代後期や末期に入っていきます。


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頼朝の父源義朝と武士団

さて、前提の話しはこれくらいにして、そろそろ本題に入って行きます。
平安時代末期、頼朝へ繋がる父源義朝の東国での軍事行動を見ていきます。
 
相模国(現在の神奈川県辺り)にも、上記しましたように荘園を持つたくさんの有力庶民がひしめいていました。
有力庶民どうしを束ねてリーダーになった豪族たちもいます。
そうした有力庶民や豪族たちが、自分の領地を守るため、また自分の領地を広げるため、仲のいい者どうし連合して争っていました。
その中に、源義朝もいました。
彼らは、朝廷に納める税を免除してもらうために、自分の荘園の名義を平安京の有力者のものにしていた一方で、相模国の国司に協力して、自分の土地を国の土地つまり国衙領にもしておりました。
それによって、国の役人に就くことができ、国内において色々な権限を得たり偉さも手に入ります。
よって、有力庶民どうしや豪族どうしの争いで、優位に立てますよね。
ちなみに、国の役人のことを国司といいますが、先程から言っている平安京から派遣された国司は、国司の中の最上位の「守(かみ)」という役職です。
このポジションは、先程から書きましたように、血筋のいい人しかなれません。
国内の有力庶民や豪族がなれるのは、国司の中でそれより下の役職です。
現地の有力庶民や豪族の中で、こうした国の役職に就いた者を、高校日本史用語で在庁官人(ざいちょうかんじん)と言います。


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源義朝は、相模国に自身の領地を領有していましたが、在庁官人である豪族たちと協力して、大庭の御厨(おおばのみくりや)に進攻します。
御厨とは、神社に寄進された土地です。
上記しましたように、有力庶民等は開拓した土地を平安京の貴族のものとして登録するが、大きなお寺や神社のものにするパターンもあります。

荘園は、誰の所有なのか誰が開発したのか、それを朝廷が認めたり、国司が認めたり、色々なパターンがあります。
義朝は、この大庭の御厨は、国司が認めただけで正式に認められた荘園でないとして、近隣の在庁官人と組んで進攻したのです。
大庭の御厨を管理している現地豪族は、大庭氏です。

義朝や義朝の味方をした豪族たちは農産物の収穫しにくい土地を領有しており、義朝に敵対する者たちは大庭の御厨はじめ農産物や海産物を得られる豊かな土地を領有しています。
つまり、現状を変更したい者と現状を維持したい者との争いともいえます。
その後、国司だけでなく国家に伊勢神宮の荘園として認められてからは、義朝を中心とした大庭の御厨への進攻はおさまります。
誰もが荘園を大きくしたいと思っていますから、ちょっとでも進攻できる理由があれば、近隣の荘園に攻撃をすることは当たり前のようにあります。
それだけ、自身の荘園は保障されていないということです。


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源頼朝をリーダーに選んだ相模国の武士たち

その後、義朝は南関東での活躍を認められ平安京に呼ばれるも、同じく平安京に呼ばれた平清盛に出世競争で敗れます。
さらに、平清盛とその一族により平安京は牛耳られます。
やがて朝廷内部の権力争いに平清盛と源義朝は敵対関係として参加して義朝は打ち取られ、嫡男の頼朝は伊豆国(現在の静岡県の一部)に追放されます。
その後、反平氏と平氏に味方する者たちとで日本列島を二分する源平合戦に突入します。
源頼朝は、反平氏であり源氏のリーダーとして歴史の表舞台に登場します。
反平氏と平氏支持者との戦いの始まりの一つが、石橋山の戦いです。

この戦いは、相模国内の反平氏派と平氏支持者の戦いとされていますが、この時反平氏のリーダーは源頼朝で平氏支持者のリーダーは大庭氏であり、義朝の相模国での領地争いと同じです。
また、源頼朝に味方した現地豪族も、義朝に大庭の御厨進攻に協力した氏と一致します。
つまり、義朝の時代の大庭御厨を巡る争いとこの頼朝を頂点とする源平合戦でのメンバーがほぼ同じなのです。
つまり、相模国においては、反平氏と平氏支持者の争いではありつつ、現状維持を目指す者は平氏に味方し、現状を変更したい者は頼朝に味方しています。
つまり、源平合戦と同時に、相模国内の領地争いにもなっています。

その後、大庭氏に味方した武士たちも頼朝側に寝返ります。
色々な意見はありますが、頼朝の土地政策が広まったことも一因とされます。
頼朝の打ち出した土地政策は、自分の味方者の土地を、近畿地方のことばかり力を入れて地方のことは放っている頼りない朝廷に代わって、保障するというものなのです。
東国にたくさんの荘園がありますが、それらたくさんの荘園の内、頼朝に従うと宣言した荘園どうし、頼朝の指揮の下で互いに守りあったり強引な国境変更はしないようルールを守りあうのです。
頼朝に従うと宣言した荘園は、結果として関東地方一円を中心にさらに広がりを見せます。
頼朝は、頼朝に従うと宣言した者を御家人として登録、その荘園の境界線をしっかりと記録します。
その国境に進攻してくる者がいれば、頼朝が指揮官となって関東一円の連合軍を率いてその荘園を守ってくれます。
或いは、頼朝に従った御家人の内、自分の荘園をさらに拡大したいからと隣の御家人の土地に進攻しようものなら関東一円の軍を率いて止めに入り、おしおきをするのです。
御家人は、自分の土地を守ってもらえる代わりに、自分とは関係のない土地が進攻された場合でも、出動しなくてはならなくはなりますが、そもそも関東一円軍がいれば抑止力となり、領土争いも減りますよね。

このように、鎌倉幕府は、国境のコロコロかわる時代にあって、国境を保証することで有力庶民からの支持を集めて成立することになります。
この制度が鎌倉幕府にとってどれだけ重要だったかは、鎌倉幕府の終わりが国境を保証できなくなることで始まったことからも伺えます。
元軍の襲来により、御家人は荘園を担保に借金して軍費を捻出して軍に参加するものの、元の土地や財産を奪うことができなかったため、恩賞をほとんどもらえず、借金返済できなくなり、そのまま荘園は借金の担保に取られてしまいます。
御家人は、鎌倉幕府に軍役をこなす代わりに土地を守ってもらう約束だったのに、これでは鎌倉幕府に従う理由がなくなります。
これで、鎌倉幕府は支持者をどんどん失い、滅亡となります。


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以上、東国を中心に有力庶民たちの「土地保証」のニーズが頼朝を支える理由になった様子を見てきました。
頼朝の人をまとめる能力が抜群であることに変わりはありませんが、武家政権という構想は、頼朝の閃きだけではなく当時の東国武士たちの必要性から発生したものとも言えると思います。
土地制度を理解すれば、歴史の流れは非常に掴みやすくなります。
今回は鎌倉時代でしたが、色々な時代の土地制度を抜き出して眺めてみても面白いかもしれません。

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