吉岡妙林尼 見事な采配と智略で鶴崎城を奪還した女性【乙津川の戦い】

吉岡妙林尼(よしおか-みょうりんに)の生い立ちは良くわかっていませんが、父は林左京亮、又は丹生正敏(丹生小次郎正敏)ともされます。
本名はもちろん生没年も不明です。
この吉岡妙林尼が有名な理由としては、女性でありながら奪われた城を奪還すると言う武功を挙げると言う女武将であるが故です。
そんな吉岡妙林尼について、できる限り詳しく掲載してみたいと思います。

吉岡妙林尼は吉岡鑑興の正室です。
この吉岡家は豊後・大友氏の一族で、吉岡鑑興(吉岡鎮興)の父は、臼杵鑑速・吉弘鎮信らと共に大友家を支えた吉岡長増(1576年頃没)となります。
そんな大友家でも重臣の鶴崎城主・吉岡鑑興に嫁いだのが妙林尼となります。
吉岡氏はもともと千歳城が居城でしたが、吉岡長増の頃に新たに鶴崎城(つるさきじょう)を築城したと考えられています。


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妙林尼の夫・吉岡鑑興(よしおか-あきおき)は、1576年から大友家の加判衆として名を連ねています。
豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の6カ国を支配し、九州最大勢力を誇っていた大友宗麟は、日向から助けを求めて逃げ伸びて来た伊東義祐佐土原城奪還を口実に、1578年、日向侵攻を開始します。
そして、耳川の戦いとなりますが、大友勢は大敗し、佐伯惟教、田北鎮周、角隈石宗らが討死し、妙林尼の夫・吉岡鑑興も戦死しました。
そのため、出家して「妙林尼」と称したようです。

その後、妙林尼の子と考えられる、吉岡統増(よしおか-むねます)が跡を継いで鶴崎城主となっています。(祖母説あり)

また、大友家を支えていた大黒柱の立花道雪も病死し、1586年7月、高橋紹運も岩屋城の戦いで切腹します。

日向方面でも島津勢が北上し、1586年12月には鶴賀城が包囲されます。
そこに、豊臣秀吉の九州攻めの第1陣となる、長宗我部元親長宗我部信親仙石秀久十河存保、依岡左京らが大友義統に味方して援軍しましたが、戸次川の戦い島津家久に大敗北を喫します。
すると、鶴賀城主・利光宗魚は降伏し、大友義統も戦うことなく府内から逃亡し、島津勢に占拠されました。

島津勢は大友宗麟が籠城する丹生島城(臼杵城)へ迫ったため、鶴崎城主・吉岡統増は軍勢を率いて丹生島城に入りました。
そのため、鶴崎城を守るのは老兵や農民・女子供といった戦力にならない者ばかりとなり、また、妙林尼が鶴崎城で指揮を取ることになりました。
いわば、吉岡妙林尼も女城主と言う事になります。
備蓄していた280丁とも言われる鉄砲の使い方を、農民や女性などに教えたと言います。
また、板や畳を農民に持参させ、鶴崎城の「塀」として板塀を廻らせ内側に畳を用いて強化し、竹矢来・逆茂木・土塁・空堀・落とし穴・薬研堀など、作れる防御施設は全て準備したとされます。

そして、丹生島城の支城である鶴崎城にも、薩摩勢の標的となり、伊集院久宣(伊集院美作守)・野村文綱(野村備中守)・白浜重政(白浜周防守)といった島津勢3000に鶴崎城は包囲されます。

鶴崎城は元々平城ですが、大野川と乙津川の扇状地に立地し、潮汐の影響を受け満潮の時には海が天然の堀となり、干潮時にしか、城には出入りできなかったとされます。
でも、城代が女性で、しかも兵の多くのは農民と言う事で、野村文綱ら島津勢は白滝山に陣を敷いて攻撃を開始しました。


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島津勢は南の高田方面からの侵入を試みますが、高田三百町の「徳丸式部大輔、徳丸刑部丞、徳丸助作、徳丸権右衛門」ら住民らが抵抗に会います。
しかし、住民らはすぐに鶴崎城へ退却したため、島津勢は勢いに乗って鶴崎城へ攻めましたが、攻め込んだはずの兵が、次々と地中へ消えたとされています。
妙林が仕掛けた「落とし穴」が機能したので、そこで動きが止まった島津勢に対して、城から鉄砲で撃退することに成功したと言います。

その後も、島津勢は16回、鶴崎城を攻撃したと言いますが、その多くの時間は落とし穴や薬研堀をひとつひとつ潰していくのに消費され薩摩勢の損害は増えるばかりで、なかなか本軍への合流もできずにいました。
叱咤激励し、女性とは思えない采配で鶴崎城を守っていた吉岡妙林尼でしたが、さすがに兵糧・弾薬も乏しくなります。
そこで島津勢は、妙林尼の直臣である中島玄佐・猪野道察に金銀を与えて和睦を求めます。
このように説得された妙林尼は全員の命の保証を条件に、鶴崎城を開城します。
その後、鶴崎城に入った島津勢と、妙林尼に従っていた者らは、互いの健闘を称えるかのように酒宴を開いたと言います。
妙林も女盛り未亡人の魅力を総身に、妖艶に踊りを披露して、薩摩勢をもてなしました。

1587年3月になると豊臣秀吉が本格的に九州攻めを開始したため、鶴崎城にいた野村備中らは撤退することになります。
この時、妙林は「大友家に背いたため、此処には残れないので、家中の者と共に連れて行ってほしい」と野村文綱に頼みます。
そして、鶴崎城にて最後の酒宴を開くと、3月8日、夜も明けやらぬ早朝に酔った状態で島津勢は撤退を開始したようです。
これに妙林は「私どもは後始末が終わりしだい、追いかけます」と言い、島津勢を見送りました。
その間に、妙林は高田組の「徳丸式部一族、向新右衛門、中村新助兄弟」ら約50名ほどを大野川と乙津川の間の藪に潜伏させていました。

そして、土手を進む島津勢を襲撃させると、退路を遮断します。
行き場を失った島津勢は乙津川沿いの北側にある寺司浜を目指しましたが、そこの松林には鉄砲隊を伏兵として潜ませていたのです。
この乙津川の戦い(寺司浜の戦い)で、伊集院久宣と白浜重政は討死し、野村文綱(野村備中守)は流れ矢で胸を負傷し退却しましたが、その途中、日向・高城にて死去しています。

こうして、吉岡妙林尼は鶴崎城を奪還しました。

島津勢は約300が討死したとされ、妙林は、翌日、討ち取った島津の63首を臼杵城の大友宗麟に届けています。
この話を聞いた豊人秀吉は感心し、吉岡妙林尼に是非会いたいと申し出ますが、妙林尼は断わっています。

女性ながら智略を持って島津勢を討った妙林尼のその後は、伝わっておらず、消息も不明です。
1593年、主君・大友義統が改易されると吉岡統増も浪人しました。

しかし、妙林尼というヒロインの尼御前伝説は、未亡人・ゴッドマザーの武勇伝として現代に伝わるのですが、ほんと戦国時代の九州女性は強いです。


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鶴崎城と乙津川の戦い

その後、鶴崎城(つるさきじょう)は、1601年に熊本城主・加藤清正が、天草の替え地として鶴崎城を得て飛び地とします。
その際に城を改修して「お茶屋」にしたとあり、1633年に細川氏が熊本城主となったあとも、熊本藩に引き継がれて、のち「成美館」と言う藩校が設立されました。

鶴崎城の跡は現在の鶴崎小学校・鶴崎高校一帯となります。
その鶴崎小学校の東側にある東門を少し入った所に鶴崎城・御茶屋の石碑と案内板が設置されてます。

鶴崎城

学校の敷地内にありますので、門の外から撮影させて頂きました。
近くには乙津川古戦場跡もありました。

乙津川古戦場跡の石碑があるのは、下記の地図ポイント地点となります。

乙津川古戦場跡

乙津川の戦いの石碑がある場所は、ホテルの脇道の反対側となります。
豊後街道(国道197沿い)のすぐ近くですが、国道には面しておらず、脇道沿いと言う形になりますので、念のため記載しておきます。

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