足利義満 既成概念を打ち破った国際派将軍の飽くなき野心②

足利義満

足利義満 祖父尊氏の夢を果たした室町幕府の三代将軍①からの続きです。

卓抜した政治的手腕で祖父・足利尊氏の悲願でもあった南北朝の合一を果たした足利義満は、応永2年(1395年)に九州で強権を築いた今川貞世を罷免、4年後には堺で挙兵した大内義弘を討ち滅ぼし(応永の乱)します。
強い力を持ちすぎた配下を弱体化、或いは滅亡させることで、西国における将軍権力を盤石にすることに成功したのです。

続いて義満は、かねてから憧れがあった中国の明王朝との国交を望みます。
が、明は南朝の懐良親王(後醍醐天皇の皇子)を日本の代表である『日本国王良懐』として冊封しており、『良懐』名義ではなく康暦2年(天授6年、1380年)に『日本国征夷将軍源義満』で交易を望んだ時も、天皇の臣である義満らの正当性を認めませんでした。


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また、明は強固な中華思想による外交政策を展開しており、周辺異民族の王が明に朝貢する形式の貿易のみを採用していたのも、義満を悩ませます。
そこで義満が採った苦肉の策が、先述した太政大臣辞任と出家です。
こうして天皇の臣下でもない自由な地位を手にした義満は応永8年(1401年)、明へ博多商人の肥富(こいつみ)と僧侶の祖阿(そあ)からなる使節(遣明使)を派遣し、勘合貿易を開始しました。

それは明の皇帝から臣下である『日本国王源道義』に封ぜられる形で行われる朝貢貿易だったので、大陸との対等外交を望んでいた人々からは、当然反対意見もありましたが、この貿易の慣習として朝貢すれば何倍もの返礼品を賜与されたため、それによって日本は黒字貿易となり、名を捨てて実を取った義満の作戦は大当たりでした。

南北朝合一、西国の沈静化、そして勘合貿易の成功で義満の治世は国力が高まり、武家様・公家様・禅宗様が融合した北山文化が栄えることになります。
また、来日した明の使者を出迎える際には兵庫まで出向いて船を見物したのを始め、天竺聖(てんじくひじり)や魏天(ぎてん)、陳外郎(ちんういろう)など異国人らしき人物の仕官を許したり、李氏朝鮮からの訪問者と会うなど、義満は海外の文化や情報をこよなく愛した国際人でもありました。

金閣寺で有名な鹿苑寺をはじめ、相国寺に360尺(約109m)にもなる八角七重塔が建立されるなど、様々な建築物の建立が推し進められた時代でもありました。
猿楽の観阿弥・世阿弥親子が義満によって保護され、彼には現代まで伝わる日本の伝統芸能の庇護者としての一面も存在します。

このように、軍事・政治ばかりか外交・経済・文化面でも精力的に活動した義満でしたが、応永15年(1408年)5月6日に満49歳で病死しました。
法名は鹿苑院天山道義、朝廷からも鹿苑院太上法皇の称号を賜りますが、後継者で義満と折り合いの悪かった4代将軍義持はそれを辞退します(ただし、相国寺の過去帳には鹿苑院太上天皇の記載あり)。

この太上法皇の一件を始め、義満が次男の義嗣を親王待遇で元服させたり、2番目の妻を後小松天皇の母に次ぐ待遇にしたこと、そして明に日本国王に封ぜられて力を得たのは、義満が皇室の簒奪を目論んでいたとする説が唱えられました。


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しかし、簒奪を裏付ける根拠は当時の記録などには存在せず、明からの冊封は永楽帝から『恭献』の謚を贈られてこそいるものの国内向けには使われず、『日本国王』の称号が貿易の肩書き以外に使われた形跡も残っていません。
義嗣の元服とて公家衆からの加冠、それに先立って天皇から賜杯されるなど厚遇を極めていますが、義満個人の偏愛ないしは公家としての役目を後継させる意味があったと見なされています。

また、将軍の任命者たる天皇の権威を回復させるべく朝儀復興に際して原理を重んじた義満と、それに反対した後円融天皇が対立したことが原因で新帝(後小松天皇)の後見人たる上皇化を義満が行ったとする説もあり、従来のように皇室をないがしろにした義満像に疑問を呈する声も少なくありません。

いずれにせよ、義満はその権力を支えた野心と行動力、そして急な死によって簒奪を目論んだと疑われた武将でした。
また、幕末から戦前にかけて台頭した南朝正閏の史観で祖父の尊氏と父の義詮と共に逆賊扱いされ、近代的な国家観が培われて以降は明からの冊封を蒸し返され、『卑屈な外交を行った』と批判されます。

こうした義満批判は、当時の我が国が置かれていた状況(朝廷の無力化と無秩序、明を中心とした国際情勢など)を鑑みて客観視すれば、決してフェアなものとは言えません。
しかし、尊氏のような慈悲深さや無欲さを示すエピソードが少なく、手段を選ばない一面があったのも事実であり、政治や思想の方面における義満への評価は今でも芳しいとは言えないものです。

一方、神社仏閣の建立を始めとした北山文化を語るにはパトロンであった義満の存在は欠かせず、アニメや童話などで有名な『一休さん(一休噺)』に登場する“将軍さま”のモデルとして人懐こく描かれ、今も愛され続ける人物でもあります。
なお、2012年にフジテレビで放映されたドラマ版『一休さん』では民衆を救うべく勘合貿易に踏み切る、果断で心優しい義満を東山紀之さんが演じました。


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苛烈なる野心家、権力者として畏れられつつも、階級に囚われない美意識の融合を為した文化人、海外との交易による経済活性化を行う先見性ある政治家にして経済人―そして物語の人物としての魅力をも兼ね備えた英雄・足利義満は、これからも我々日本人に強い影響力を与え続けていくことでしょう。

(寄稿)太田

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