最後まで武田勝頼に従った勇士・侍女たち

武田勝頼終焉の地・景徳院にある「牌子」には武田勝頼北条夫人武田信勝のほか、この田野で討死・自害した武将などの遺品が存在する。
逃亡する将兵が多い中、最後まで武田勝頼に忠節を尽くした忠義の士をまとめてご紹介したい。

甲陽軍鑑には侍44人、女房衆23人、主従合計70人とある。
甲斐国志には士46人、侍婢23人、主従合計72人とある。
田野の景徳院の牌子では武田勝頼、北条夫人、武田信勝の他に、僧が2人、士33人、女子16人の計54人とある。

景徳院の牌子によると、下記の武将の名が見受けられる。

跡部勝資(跡部尾張守勝資)、安部貞村(安部加賀守貞村、安倍宗貞、安倍勝宝)、小原広勝(小原忠次、小原丹後守忠次、小原丹後守広勝)、小原忠国(小原下総守忠国)、小原源太左衛門、小原下野守、小原清二郎、小原惣六、小原忠五郎、温井景宗(温井常陸介景宗、温井常陸介氏照)、秋山光綱(秋山光次、秋山紀伊守光綱)、秋山杢介、秋山景氏(秋山源三郎景氏)、秋山宗九郎、秋山光明(秋山民部光明)、秋山宮内、土屋昌恒(土屋惣蔵昌恒)、土屋源蔵、河村道雅(河村下総守道雅)、小宮山友晴(小宮山内膳友晴)、金丸昌義(金丸助六郎昌義)、小山田平左衛門、小山田義次(小山田掃部介義次)、小山田弥介、小山田於児、安西伊賀守、岩下総六郎、多田久蔵、内藤久蔵、山野居源蔵、神林清十郎、有賀勝慶(有賀善左衛門)、穴沢次太夫、薬袋小助(薬袋小助信)、貫井新蔵ら33人と侍女衆・綾糸ら16人。

跡部勝資は、武田信玄の代から山県昌景土屋昌続・原昌胤らと並び側近として仕え、山県昌景・春日虎綱(高坂昌信)らと同じ300騎と言う武田家中でも最大兵力を誇り、武田勝頼は重用していた家老。

安部貞村(安倍宗貞・安倍勝宝)は、使番を務め、1562年、高遠城主となった武田勝頼を支えるために付けられた士隊将八名のうちの一人。
1579年には海津城主。
嫡男・安部掃部介貞直と、次男・安部右衛門尉道忠は、高遠城にて仁科盛信と共に討死していた。
安部貞村は田野で秋山光明と2人で敵陣に斬りこみ討死。享年53。


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小原広勝が兄で、小原忠国は小原広勝の弟。2人とも、1562年、武田勝頼につけられた士隊将八名のうちの一人。
甲斐国東山梨郡小原村(山梨市小原)の小原氏で武田家一族。
武田信玄は、武田勝頼に「武道以外の事、小原兄弟と秋山紀伊守に相談いたせ」と伝えている。
小原広勝と小原忠国が、北条夫人や侍女達の介錯をした
小原惣六は小原忠国の子。小原忠五郎は小原広勝の子。
小原源太左衛門、小原下野守、小原清二郎も一族だと推測され、小原一族はことごとく殉死した為「甲斐国志」の編者も「一族竹田野郎に戦死して小原氏には後に幕府の拝謁せし者無かりきと云伝へたり」と記載されている。

四郎作

温井景宗は、武田信玄の近習で、武田勝頼の跡取り・武田信勝に付けられた役人(御曹子様衆)であった。
亀の甲の御槍を安部貞村と共にかついで田野に同行した。

秋山光綱(秋山紀伊守光綱、秋山紀伊守光次)は、信濃出身とされ、1562年に武田勝頼につけられた士隊将八名のうちの一人。
小原忠次・小原忠国の兄弟と共に伊那方面の司令官だったとも? 安西平左衛門と共に年長者。武田信玄は、武田勝頼に「武道以外の事、小原兄弟と秋山紀伊守に相談いたせ」と伝えている。
東郡の八幡郷が所領だった。

秋山杢介は、武田信勝に仕えていた模様。秋山光明は秋山氏一族で、秋山宗九郎は秋山光明の子。
秋山宮内は信濃・諏訪社関係の奉書にその名が多く見られる。宮内丞昌満の子孫か?
秋山景氏は、金丸虎義の七男で、兄に金丸昌直、土屋昌続、秋山昌詮、秋山定光、土屋昌恒がいる。
岩村城主・秋山虎繁の養子になったようで、兄・秋山昌詮が29歳で亡くなったあと、秋山氏の家督を継いだようだ。

土屋昌恒(土屋惣蔵昌恒)は有名な武将なので詳細はこちら
土屋源蔵については子や兄弟など一族と考えられるが、詳細は不明。

河村道雅は、武田信玄・武田勝頼に仕え、武田勝頼の「御なんど奉行」、つまり衣料・調度などを取り仕切っていた。
討死後、河村道雅の妻(南アルプス市の旧甲西町)は自らの住居をお寺として「河村山常泉寺」と名付けたと言う。

小宮山友晴(小宮山内膳友晴)も有名な武将ですので詳細はこちら

金丸昌義は、金丸虎義の4男(土屋昌恒の兄)。小原広勝らと共に勝頼の妻子を介錯。亡骸を葬り、自らも自刃した。享年29。(27歳とも)

安西伊賀守は槍奉行。この時も年輩だったようで、田野では北条夫人に小田原城へ帰るように説得したと伝わる。

岩下総六郎は、岩下右近と言う子?がいたようですが、詳しい事は不明。

多田久蔵は、武田二十四将の多田頼光(多田淡路守頼光)の子。

有賀勝慶(有賀善左衛門)は、武田勝頼が諏訪にいたころからの家臣。

内藤久蔵、神林清十郎、穴沢次太夫、貫井新蔵に関しては詳細不明。

山野居源蔵、薬袋小助は、武田信勝に仕えていた。

円首座禅師は、麟岳和尚の弟子。麟岳和尚は長坂・跡部らと武田家の政策に関与していた。

綾糸は、北条夫人の侍女。

小山田平左衛門は小山田信茂の従兄弟とも言われ、鉄砲の名手。
小山田義次(小山田掃部介義次)は、小山田信茂の甥で、小山田信茂家臣の中でも有力者だった。
小山田弥介は小山田織部の陣中使番の1人で百足衆。鉄砲の名手で、天目山では小山田平左衛門とともに30数名を撃った。
長篠の戦いで、初鹿野伝右衛門が暑さと疲労のあまり武田信玄愛用の「諏訪法性兜」の旗を捨てたのを、小山田弥介が拾って甲州に持ち帰った事でも知られる。
小山田於児は、詳細不明。
お児とは15~16歳以下の子供の事を指す。この若さで討死した。

なお、武田勝頼が勝沼で宿泊した大善寺理慶尼の記録によると、理慶尼の元夫・雨宮景尚も最後まで従い殉死したとあるが、景徳院の位牌には含まれていない。

ほとんど途中で離反したけれども、最後まで従った男性(武士・僧)の人数に対して、半分が侍女(女性)なのは注目すべき点である。

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