第1次上田城の戦い【第一次上田合戦、神川合戦】の概要と経緯


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1584年3月、小牧長久手の戦いにて、豊臣秀吉徳川家康が対峙した際、徳川家康北条氏直北条氏政の後方支援を得る為、真田昌幸に沼田領を北条家に割譲するよう求めた。
しかし、真田昌幸はこれを拒否したことで徳川家康と対立し、真田昌幸は、1585年7月に上杉景勝に帰属して徳川家康に対抗する姿勢を見せる。

小大名の離反で威信を傷つけられた徳川家康は、真田昌幸2000の上田城を攻める事にした。
なお、NHK大河ドラマ「真田丸」では、徳川家康に内通した真田家の家臣・室賀正武が、真田昌幸の暗殺に失敗したため、攻めたとする説を取っている。

徳川勢の軍勢としては、鳥居元忠大久保忠世平岩親吉、柴田康忠、大久保忠教、岡部長盛(岡部弥二郎長盛)に、信濃の諸将である保科正久、矢代正信、三枝守勝、曽根内匠助、諏訪頼忠、下条家、知久家、遠山家、芦田家などを加えた7000の軍勢を差し向けた。
本多忠勝井伊直政と言った主力が参加していないことから、どうも、徳川家康は豊臣秀吉の動きを警戒していたと推測でき、いわば2軍を派遣している。
なお、徳川勢が万が一負けると、それこそみっともないため、公称7000は少な目に言っていたようで、実際には10000くらいの軍勢だったようだ。

真田勢は沼田城矢沢頼綱を大将として、沼田七人衆である下沼田豊前守・恩田伊賀守・ 発智三河守・恩田越前守・和田主殿助・久屋勝五郎・岡野加賀守・金子美濃守・木曽甚右衛門らに籠城もさせている。
このように戦力も分散しておりまともに戦える状況ではないため、矢沢頼貞と海野喜兵衛を越後・上杉景勝の元に走らせ、援軍も要請した。

上田城を守る真田勢は総勢約1200~2000人と少数であり、真田昌幸はまだ未完成だった上田城の本丸に500を配置して籠城。
上田城の横曲輪などにも兵を配置し、神川(かんがわ)には前線部隊200、長男・真田信幸(真田信之)には800をつけて砥石城(戸石城)に入れ、矢沢頼康矢沢城にて上杉景勝から届いた僅かな援兵(800とも?)と共に篭城した。
なお、上田城の東側には、千鳥掛けと言う、互い違いに結った柵を設け、農兵3000を街や山野のあちこちに配置し、紙幟(かみのぼり)を立てさせ伏兵とした。
真田幸村は上杉の援軍と共に、矢沢城に入ったとする説もあるが、上杉景勝の人質となっていたため、恐らくは参戦はしていないだろう。(諸説あり)

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1585年8月、徳川勢は上田城の東側から総攻撃を掛ける。
東側から攻めると言うのは、上田城の防御体制から、唯一攻撃可能な方角であった。

徳川勢の先鋒が神川に達すると、真田勢200の前衛が槍合わせを行うが、恐れをなしてすぐに逃げるように上田城へ退却する。
真田勢は小勢でたいした抵抗もしないと見た徳川勢は、一気に上田城へと襲い掛かるが、この時、真田昌幸は櫓の中で、甲冑も着ず、家臣と碁を打つと言う余裕を見せていたと言う。

更に若侍に手鼓で調子を打たせ、名高い「高砂の謡」を歌って、徳川勢を挑発した。

徳川勢は、勢いに乗って上田城の大手門を突破しようとした時、真田昌幸は東城門上に隠していた丸太を落とす戦法を取り、更に徳川勢に弓や鉄砲を撃ち掛けて反撃に出た。
そして、徳川勢が怯んだところを、城内から500の兵を出し、横曲輪からも討って出るだけだなく、城下の町家に火を放ち後方をかく乱した。

そこを山に隠れていた農兵や、砥石城の真田信之らが、徳川勢の退路へ進出し、挟撃をする。
徳川勢は、退却しようにも、城下では炎に追われ、また千鳥掛けの柵に引っかかるなどして逃げ惑い、大混乱に陥る。

北国街道方面に逃れた徳川勢は、砥石城の真田信之らの攻撃を受け、なんとか神川まで戻る事ができた徳川勢も、上流の堰を切り、濁流が押し寄せた神川で溺死すると言う、散々な結果となる。

真田勢である望月主水・板垣修理亮信形・来福寺・石井舎人・木村土佐・荒木肥後・高槻備中・瀬下若狭・大熊五郎左衛門・大熊勘右衛門・金井豊前隆清・金井金右衛門清実・上原某・三輪琴之助・水科新助・春原某・高原某・成沢勘左衛門・小屋右衛門七・高野某・車某・池田清兵衛・小泉源五郎・塚本某・白倉武兵衛・吉田庄助・田口文左衛門・窪田某・堀田角兵衛・矢野孫右衛門・松崎五右衛門・原三右衛門・原監物・原右近・祢津長石衛門・祢津志摩・市場茂右衛門・日置五右衛門らのの働きが著しく、混乱して敗走した徳川勢は、約1300が討ち取られたが、徳川勢の天方喜三郎・天野小八郎・松平七郎右衛門・十塚久助・後藤惣平・足達善一郎・太田源蔵・松井弥四郎・気多甚六郎・江坂茂助らが踏ん張った。
一方、真田勢は依田助十郎が大河内善一郎に討たれたが、死者は40名ほどだとされる。

真田信之や矢沢頼康ら真田家の家臣も活躍し、兵力にも勝っていた徳川家康が敗北したと、真田昌幸の名は轟き、隣国からは独立した大名として意識される事となった。


 
戦果を得られなかった徳川勢は、威信にかけてこのまま帰る事もできず、せめて丸子城を落とそうと矛先を変えた。
丸子城主・丸子三左衛門も兵力では徳川家より少なく、通常であれば降伏してもおかしくなかったが、真田を裏切ることなく、徳川勢から良く防いだ。

この結果を受けて、徳川家康は井伊直政5000を後詰(援軍)として派遣したが、石川数正が徳川家を出奔すると言う事件が起きたこともあり、戦どころではなくなり9月下旬に徳川勢は全軍撤退した。

この戦いで遺恨を残した徳川家康は、1600年、関ヶ原の戦いの前哨戦となる第二次上田合戦(第2次上田城の戦い)へと繋がるのである。

第一次上田城の戦いは、上記の通り、籠城戦と言うよりは、城から討って出た野戦とも言えるため、神川の戦いとも言う。
真田昌幸が籠城策を取らなかったのは、上杉家からこれ以上の援軍も期待できなかったからだろうが、もし、平凡な武将のように単に籠城しても、補給も続かずそれでは負けるばかりだと分かっていたのだろう。
その為、賭けに出たものと推測する。
籠城すると見せかけてたが、最初から迎撃する配置・作戦を取っており、徳川勢はその罠に見事にはまったと言えよう。

柳生聡さまのご意見

なぜ徳川家康は自身出馬せず、二軍中心の手を抜いた上田遠征を指示したのか・・それが疑問でしたが、後世真田の手腕を知る我々の目からそう思うので、当時としては、信州の小豪族相手に、二軍の混成旅団7千~1万は妥当だったのかなぁと思いもします。

そこで、理由を様々思いめぐらしてみました。
この合戦で徳川家康自身が出馬せず、しかも二軍を中心の編成で大将指揮権の判然としない混成旅団を派遣したことに諸説ありますが・・

①小牧長久手戦後、膠着していた対羽柴秀吉勢力への警戒態勢が優先したので、一軍は東海筋に展開させていた。
②真田ごとき弱小豪族は、主力を差し向けるほどのことでもないとの楽観論が家中にあった。
③北条との協調作戦で、十分真田を圧倒できると踏んでいた。
④家康自身重い病の後で戦陣に立てる体ではなかった。
などなど。

真田昌幸は、徳川軍を第一次上田合戦で返り討ちに合わせた後も、徳川の後詰増援に備えて手を打っておいたようですね。

上杉景勝を通じて、羽柴(この翌年、従一位下「豊臣」に改姓ですね)と誼を通じて、共同作戦のように石川数正を出奔させて徳川軍内部を骨抜きにしていますね。
これが最大の理由で、徳川軍は上田から撤退したとされます。

家康臣従を促すための秀吉の布石なわけですが、上田合戦の敗戦に付け込んでいるタイミングといい、一連の徳川の失態続きは関連があるんだろうと思います。

以上のようなコメントをFacebookの方に賜りました。

2軍を派遣した理由としては、小生も北条氏直も沼田城を簡単に落とすだろうと言う2面作戦と、対・豊臣秀吉への対応もあり、1軍は温存したものと推測しております。
でも、上田城攻めで失敗し、更に援軍として井伊直政を送ったと言う事は、上田城は落とすつもりだったと思います。
大河ドラマ「真田丸」のように、想像を膨らました三谷幸喜さん流の解釈をしてみますと、石川数正が出奔したのも、真田昌幸が裏で手を引いていた?と、感じてしまいますね。

以上、真田昌幸の軍略が光った上田合戦。
皆様もご意見などございましたら、是非、コメント欄にお寄せ願えますと幸いに存じる。

室賀正武の真田昌幸暗殺未遂事件【大河ドラマ真田丸】
真田昌幸の詳細はこちら
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コメント

    • 京巻紙
    • 2016年 9月 08日

    第一次上田合戦にて徳川二軍派遣の理由について、柳生聡さんの意見にごもっともと感じる次第ですが、その上で、次のようにも考えられるのではないでしょうか

    1)参加兵力は上田近隣の信濃の新参衆と甲斐を新領地とする譜代衆(鳥居・平岩など)
    2)これだけで城攻め3倍の原則(2000対7000)を十分上回る兵力を派遣できた
    3)現地軍なので補給容易で長期包囲戦でも有利な上、北条国境は同盟で安泰で攻城に専念できる
    4)譜代衆は四天王がいないだけで直近の対北条戦の武勲者ぞろい

    ということで、小豪族相手に徳川の甲斐・信濃連合軍で万全の布陣をしているわけで、「純粋に軍事的にも東海筋から遠路主力を派遣する必要がなかった」というのが追加の意見です。
    家康からしてみると、「遠隔地の小紛争など現地軍でなんとかせい!」ということでしょう。

    • 柳生聡
    • 2016年 9月 10日

    京巻紙様
    コメントありがとうございます。

    ▼武田氏滅亡後の「天正壬午の乱」からまだ間もなく、旧武田領の諸将が徳川にどれだけ従うかは、まことに疑問でありましたろうと思います。

    そんな中で家康の最大の脅威はやはり秀吉勢力。
    本拠地東海方面でにらみ合いながら、背後の対北条との同盟も安心ならぬ状況です。これに秀吉と結ばれたら一発でアウト。
    北条への信用をつなげるためにも大軍の出兵をしたのでしょうけど。
    徳川としては、やはり真田の数倍の兵力を派遣して脅せば、まさか敗北はないだろうと油断したやに見えます。

    ▼おっしゃるとおり、ロジスティクス(兵站・補給)と作戦行動を考慮すれば、現地勢の忠誠度をはかりながらの甲信諸将を主体の軍団編成になりますよね。
    まことにおっしゃるとおりです。

    ▼大久保忠世は信濃の奉行で、小諸在番。鳥居と平岩は、甲斐に城と領地を与えられていた関係で参陣です。
    ただし、三将とも当時侍大将格でしたか。上下関係も判然としない共同指揮みたいな優柔さで、新参衆を指揮下に集めた寄り合い旅団。
    これで、故郷の存亡をかけたホームゲームに万全の備えを敷いた真田軍では、「3倍原則」も苦しいかな。

    ▼「徳川四天王」格の概念はもうすこし後の時代のものですから、この時点ではこんなもんかなぁ?と考えます。

    ▼家康自らが出馬していれば、城攻めなどはせずに野戦か持久戦を選んだろうし、甲信の諸将もやる気を見せたんでしょうね。

    上杉勢が真田の後詰めに5,000人を海津城の須田満親のもとに駐屯させたのも、徳川が短期でカタを付けたかった効果を生んだのではないでしょうか。

    ▼追い詰められてこの一戦にかける真田と多方面に作戦行動を強いられた徳川の状況の格差が大きいかなと思います。

    それにしても、「御館の乱」のときも武田勝頼に対する北条の連携行動は鈍かったし、この第一次上田合戦でも北条は同様でした。戦勝後にいちばん得をするのは北条だと言うことを理解していないなぁと思うのです。
    この戦で徳川よりも一番信用を失ったのは北条家じゃなかったかな? と愚感したのです。

    今後ともご教示下さいませm(_ _)m

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