跡部勝資(あとべ-かつすけ)は、武田信玄の家臣・跡部信秋の子として生まれたが生年や母の名は不明。
跡部家は小笠原家の庶流で信濃・跡部郷が出自であり、室町時代の跡部景家の頃には、甲斐守護代として権勢を誇った。
しかし、武田家に屈して没落したが、その後、武田家の譜代家老を務めており、跡部勝資の父・跡部信秋(跡部伊賀守信秋)も、駒井高白斎などと武田晴信(武田信玄)の側近として文書などを発給している。
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跡部勝資(跡部又八郎)も、山県昌景・土屋昌続・原昌胤らと武田信玄の側近として仕えて、多くの朱印状奉者としてその名が見られる。
甲陽軍鑑では、跡部勝資は300騎の侍大将とされているので、山県昌景・春日虎綱(高坂昌信)とともに、武田家臣でも最大級の兵力を誇った。
1549年5月、大井信常を大井家の名代に命じる使者として駒井高白斎と跡部勝資(跡部又八郎)が派遣されいる。
1560年には嫡男?・和田信業が誕生しているが、のち上野・和田城主・和田業繁の婿養子となり、1575年の長篠の戦いで和田業繁が討死すると、和田信業が和田家を継いでいる。
さて、跡部勝資は1566年まで「跡部又八郎」の記述で見られるが、1566年閏8月からは跡部大炊助(おおすのすけ)の記述に変わり、領国各地の国衆との取次役を務めた。
また、1567年の武田義信事件においては、下之郷起請文にて奉行を務めている。
武田勝頼の時代となると、跡部勝資は外交の交渉役となり、越後・上杉景勝との甲越同盟や、常陸・佐竹家との甲佐同盟などにて、武田信豊と共に活躍した。
長篠の戦いでは、馬場信春など古参重臣が反対するなか、織田勢の鉄砲隊に、騎馬にて突撃する作戦を提案したともされ、武田勢の敗北を招いたとも言われている。(作り話の可能性もある)
武田家臣として武功を挙げたと言う記録は見当たらないが、信長公記によると、多くの家臣が見捨てる中、跡部勝資は最後まで武田勝頼に従い、1582年3月11日、天目山の戦いにて討死した。
武田家の滅亡時に信濃の諏訪にて死去したとする伝承もあるが、誤記又は一族の者であると推定されている。
和田家を継いでいた子の和田信業は、武田滅亡後、真田昌幸らと共に北条氏直に臣従したが、滝川一益が上野に入ると織田家に従っている。
その後、再び北条家に仕えると、他国衆として厚遇されたが、1590年、小田原攻めの際には小田原城に籠城。
その後、浪人となり1617年に死去しているが、子孫は会津藩・松平家の家臣になっている。
次男とされる跡部昌勝は、のちに徳川家康の家臣に加わり、旗本となった。
幕末に水戸藩が輩出した武田耕雲斎も、最初の名は跡部正生であり、跡部氏末裔のうちの1人である。
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