岩佐又兵衛は、1578年に有岡城主・荒木村重の子として誕生した。
母は岩佐氏の娘とされるが、詳細は不明。(荒木だしの娘とも?)
この1578年10月、父・荒木村重が織田信長に反旗を翻し、1579年に荒木村重が有岡城から逃亡したあと、織田勢の総攻撃のさなかに乳母と共に逃れたようだ。
12月、有岡城に残された荒木家の一族が処刑される中、乳飲み子だった又兵衛は、石山本願寺(京都・本願寺とも?)を頼って逃れることに成功した。
成人すると母方の姓「岩佐」を名乗り生活したとされる。岩佐氏は乳母の実家だとする説もある。
スポンサーリンク
1582年に明智光秀の本能寺の変により織田信長が横死すると、織田信雄の近習小姓役として仕えた。
絵の才能があり、文芸や画業などの諸芸をもって御伽衆として仕えたものと考えられる。猥雑、卑俗、狂乱、混沌といった独特の画風だったようだ。
しかし、小田原攻めのあとに、豊臣秀吉の怒りをかった織田信雄が改易(所領没収)されると浪人となり、又兵衛の名を改めて、岩佐勝以と名乗った。
そして、京都で絵師として活動を始めたようで、有名な「洛中洛外図屏風」(国宝)を制作している。
大坂の陣の直後の40歳の頃に越前の福井藩主・松平忠直に召し抱えられたようで、北庄の新屋舗町に移り、20年余りを過ごした。
福井・興宗寺の僧・心願が岩佐又兵衛の画を見て、福井藩主に推挙したとも。
1637年(60歳前後)には徳川秀忠の招きで、3代将軍・徳川家光の娘・千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度品「初音の調度」の制作を命じられ、江戸に移り住んだ。
江戸でも精力的に作品制作を行い、初期風俗画の先駆者、浮世絵の元祖となった。
焼失した川越・東照宮喜多院の再建のための拝殿に掲げる三十六歌仙図の作成も行っている。
現在にも伝わる乗用文化財も多数あるなど、多くの名作を残し、1650年に江戸で没している。
墓はゆかりの福井興宗寺に置かれた。
スポンサーリンク
福井の家はそのままだったので、やはり絵師であった嫡男・岩佐勝重が継ぎ、御用絵師の福井藩士として存続した。
※軍師官兵衛に登場する、荒木村重の元家臣 鉄砲組・谷崎新吉 に関しては、創作の人物か? 乳母とされる、さと と共に詳細不明。
・荒木村次(尼崎城主)は荒木村重の嫡男、そして次男・荒木村常
・池田和泉守~日本で初めて鉄砲自殺したとされる荒木村重の重臣
・有岡城(伊丹城) 伊丹駅前に残る城跡と伊丹親興も
・摂津・大物城(尼崎古城) 大物崩れの舞台
・尼崎城が復活 4重天守が400年ぶりに蘇る
・中川清秀 荒木村重傘下の有能な武将
・高山右近~60000石になったキリシタン大名
コメント
コメント ( 1 )
トラックバックは利用できません。
軍師官兵衛に登場する、荒木村重の元家臣 鉄砲組・谷崎新吉 に関しては、創作の人物か? 乳母とされる、さと と共に詳細不明。